2012年2月12日日曜日

説教集B年:2009年間第6主日(三ケ日)

朗読聖書: . 創世記 3: 16~19. . コリント前 10: 31~ 11: 1.

. マルコ福音 1: 40~45.

創世記からの引用である本日の第一朗読と、マルコによる本日の福音については、3年前にかなり長い話を致しました。それで今回は、今年が「パウロ年」であることも考え、コリント前書からの引用である本日の短い第二朗読を中心にし、使徒パウロの生き方や実践的勧告についてご一緒に考えてみたいと思います。この第二朗読は、異教の偶像に供えられた食物を食べてよいか、という問題についてのパウロの一連の話の後半部分から引用しています。

その話の始めに、パウロはまず、「全てのことが許されています。しかし、全てのことが益になるわけではありません。云々」と述べています。同じ言葉は、洗礼を受けた私たちの体は主のためにある主のものであって、主のお体の一部、聖霊が宿って下さる神殿であることを説いた第6章にも述べられていますから、それらも参照しますと、主キリストとの交わりを損なう偶像礼拝は断固拒否しなければなりませんが、主と内的に結ばれ、主の霊に生かされて生きている者には全てのことが許されていて、主の導きを知らない人たちが自分の頭で作り上げた何かの規則や理知的見解からも解放されている、という意味だと思います。したがって、これは私の解釈ですが、たとい一度異教の偶像に供えられた食べ物を主に従う心のままで食べても、その食事自体から心に害を受けることはありません。しかし、そういう行為がまだ主の霊に生かされていない弱い人たちの心に躓きを与え、有害になることもあるので、隣人愛の観点から十分配慮を行き届からせて慎むように、というのが使徒の警告だと思われます。

前半の始めにあるそのような言葉を受けて、パウロは本日の第二朗読で、「あなた方は食べるにしろ飲むにしろ、何をするにも全て神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも、あなた方は人を惑わす原因にならないようにしなさい」と勧めているのだと思います。日々主の霊に生かされ、聖霊の生きる神殿として生活する者は、何をするにも全て「神の栄光を現す」ことを念頭に置いて為すべきだというのが、使徒が生きてみせている模範であり教えであると思います。律法中心の古い伝統的生き方を堅持しているユダヤ人にも、異教文化の中で生まれ育ったギリシャ人にも、なるべく誤解や躓きを与えたり、彼らの心を惑わしたりしないようにという配慮、また「神の教会」、すなわちキリスト教の信徒団にも躓きや惑いを起こさせない配慮にも、心がけるよう勧めています。

そして本日の第二朗読の後半にパウロは、自分の心構えにも言及しています。「私も人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、全ての点で全ての人を喜ばそうとしているのです」、「私がキリストに倣う者であるように、あなた方もこの私に倣う者となりなさい」という言葉は、パウロが日頃から自分の損得などは無視して、一人でも多くの人を救うために、その人たちの利益を何よりも優先する生き方、全ての点で全ての人を喜ばせよう、神の内に新しい生き甲斐を見出させようと努めていたことを、また主キリストの生き方に見習う自分のその生活態度を、日々人々に実証していたことを示していると思います。私たちも小さいながら、そのような我なしの奉仕的愛の証しを、日々実践的に世の人々に示すよう心がけましょう。たとい人々からその努力がほとんど理解されないとしても、心配いりません。私たちはそのような奉仕と祈りの実践で、その人たちの上に神の祝福を豊かに呼び下すと思います。使徒パウロも、この世の人たちからどれ程理解されなくても、ひたすら天の神と主キリストとに心の眼を向けながら献身的愛の証しをこの世に刻み、それによって神から多くの祝福を、世の人々の上に呼び下していたのだと思います。