2011年12月11日日曜日

説教集B年:2008年待降節第3主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 61章1~2a、10~11節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 5章16~24節
福音朗読 ヨハネによる福音書 1章6~8、19~28節

① 本日の第一朗読は、バビロン捕囚から解放されて帰国した民に向って第三イザヤが預言したものですが、そこには神から預言者に与えられた召命についても語られています。「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた」という言葉に始まり、「囚われ人には自由を、繋がれている人には解放を告知するために、云々」と、後年主イエスも故郷ナザレでの説教に引用なされた言葉が続いています。これらの預言は、バビロン捕囚から解放された時にも、また主イエスの時代にも少しは実現したでしょうが、何よりも世の終わりの時、主イエスの再臨によって大規模に実現する情景を垣間見て、預言したものであると思われます。ご存じのように、待降節の前半12月16日までの典礼は、何よりも主の再臨を待望する思想で満たされています。それで、この立場で本日の三つの祈願文も朗読聖書も受け止め、この世の人間社会や家庭が、数々の乱れで内面から崩壊し始める暗い終末的様相を呈する時に、天から神の栄光を輝かせて再臨して下さる主を、忍耐強く待望し続ける決意を新たにいたしましょう。

② 第一朗読に読まれる「良い知らせを伝えさせるために」という言葉は、新約聖書にも何回か使われていますが、この「良い知らせを伝える」という言葉は、ギリシャ語の「エヴァンゲリオン」という動詞の邦訳であります。この動詞はもともと、戦争の時に前線での喜ばしい勝利を、伝令が後方の部隊や町の人々に伝える行為を指しており、そこから転じて、神からの喜ばしい知らせを人々に伝える行為にも使われるようになったようです。そして更に、私たちが福音を宣べ伝えるのにも使われるようになりましたが、ギリシャ語の最初の意味から、ふと私が小学5年生の時に遊んだことのある「伝言リレー」という遊びを、懐かしく思い出しました。学校の先生が、生徒たちを二つのグループに分けて、右側と左側にそれぞれ少しずつ距離を置いて細長く一列に並べ、左右の最初の生徒にそれぞれ同じメッセージを密かに囁き、それが20人余の生徒にそれぞれ個人的に密かに伝えられた後に、最後にどのようなメッセージになっているかを、時間的速さで競わせる遊びでした。しかし、どちらのグループでもとんでもない話に変形されていました。私たちの神も、主キリストの原初の福音が、2千年後の現代社会ではかなり変形されて宣べ伝えられていることに、驚いておられるかも知れません。

③ 最近あるカトリック信者から、某教会での司祭の説教についての不満や疑問を聞いて、そんな思いを深くしています。戦後の能力主義や自由主義の教育を受けた司祭たちの中には、自分の全く個人的な聖書解釈や伝統理解から、「福音宣教のため」という善意からではありますが、主キリストの本来の意図から大きく外れた説教を教会で話してしまうこともあるのではないでしょうか。社会に終末的様相が広まって来る時代には、カトリック教会内でもそういうことが頻発するかも知れません。主はルカ福音18: 8に、「しかし、人の子が来る時、地上に信仰が見出されるであろうか」という疑問を呈しておられます。私の知っている昔の信徒たちは、己を無にして神の御旨への従順を何よりも重視しておられた主の御模範に倣って、自分の考えや自分の力で神のために何かを為そうとするよりも、神の御旨やお導きに幼子のようにしっかりと捉まり、従っていようと努めていました。私たちも、そういう伝統を大切にしていましょう。

④ 本日の第二朗読は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝していなさい」という言葉で始っています。神から戴いた霊の火に従って、私たちもこのように心がけましょう。幼子のような素直な信仰心に生きているなら、栄光に輝く主の再臨は、恐れではなく大きな喜びを心にもたらすものとなるでしょうから。そして主は、私たちの「霊も心も体も」非の打ちどころがない程、清いものとして下さるでしょうから。神ご自身が、私たちの心の中で働いて下さるのです。使徒パウロのこの言葉を、堅く信じましょう。主イエスの再臨の時、主から「忠実な僕、婢」として認められ喜ばれて、新しい栄光の国に温かく迎え入れられるために。

⑤ 本日の福音の中で洗礼者ヨハネは、「あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる。云々」と話していますが、この言葉は、現代の私たちにとっても大切だと思います。「私は荒れ野で叫ぶ声である」と公言したヨハネは、全ての被造物の中での神の現存、特に身近な出来事の中での神の現存と働きに対する心の感覚を、子供の時から磨いていたと思います。それで、父なる神は、御子イエスにいよいよ福音宣教と救いの御業を公然と始めさせるに当たり、まずはそういう預言者的信仰感覚を磨いていたヨハネの心の中に、お働きになったのだと思います。ヨハネは、自分の心の中に神が叫んでおられる、自分の心はその叫ぶ神の道具でしかない、と実感したのではないでしょうか。ですから、イザヤ預言者の言葉を引用して、「私は荒れ野で叫ぶ声である」と答えたのだと思います。

⑥ 主の再臨に備えて私たちの為すべき準備は、何よりも心のこういう信仰感覚を磨くことだと思います。私たちは皆、全知全能の神の存在と私たちに対する愛とを信じてはいますが、その信仰がいわば「頭の信仰」に留まっていて、心の奥底の「もう一人の自分」と言われる、私たちの一番大切な生命と能力は、まだ半分眠ってはいないでしょうか。心の上層部を統御する表向きの自我は、隣人や同僚たちに引け劣ることのないよう、この世での体験や集めた知識情報などを理知的に整理統合しながら、自分で判断し決定しようとします。2千年前のファリサイ派の人たちも、神を信じ、聖書に基づいてメシアの来臨を待望しつつも、そういう自分中心・この世の人間的組織や生活中心の自我が主導権を握っているような「頭の信仰」に生きていました。それで外的には幾度主イエスの話を聞いても、そこに秘められている神よりの声を、正しく聞き分けることができなかったと思われます。その主は今も、目に見えないながらも世の終わりまで私たちに伴っておられ、そのような「ファリサイ派のパンだねに警戒せよ」「目覚めて祈れ」などと、私たちの心に呼びかけておられるのではないでしょうか。私たちの心の奥底にいる「もう一人の自分」、私たちの本当の自己を目覚めさせ、幼子のように素直で奉仕的な愛の命に育て上げましょう。そうすれば、私たちの心の中に神の霊が実際に働き始め、私たちの生活を新たな光で照らし導いて下さるのを実感するようになります。神の霊が、私たちの心の中で導いて下さるのです。明治・大正頃の敬虔な日本人キリスト者たちは、そのように生きることを「自己完成」と呼んでいました。目覚めて完成された自己が主導権をとり、表向きの自我とバランスよく相互協力する生き方の中に、私たちの本当の幸せがあると思います。そこには、主の霊がいつも伴い守り導いて下さるのですから。