2012年12月25日火曜日

説教集C年:2009降誕祭日中ミサ(三ケ日)



朗読聖書: . イザヤ 52: 7~10. Ⅱ. ヘブライ 1: 1~6.
     Ⅲ. ヨハネ福音 1: 1~18.

    本日の日中ミサ聖祭は、ローマ教皇のご意向に従って全教会・全人類の上に、人となってこの世にお生まれになった救い主の祝福を願い求めて献げられます。世界中のキリスト者たちと心を合わせ、この意向でお祈り致しましょう。本日の第一朗読には、「主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、全ての人が私たちの神の救いを仰ぐ」という大きな希望の言葉が読まれます。これは、エルサレムの滅亡とバビロン捕囚という悲惨な現実を体験し、落胆していた神の民にイザヤ預言者が語った言葉ですが、預言者はこの言葉の少し前に、「シオンよ、目覚めよ。目覚めよ」と、信仰の眼を見開いて神の働き、神が為して下さっておられる業をしっかりと見据えるよう勧めています。

    私たちこの世の人間は、とかく肉の目に見える現実に支配され易いですが、聖書によりますと、刻々と過ぎ行くこの仮の世の現実は皆夢のようなもので、本当の現実は、その外的現実の陰で神がなさっておられる働き、救いの御業にあるようです。信仰の眼を見開いてこの現実を見定め、神の囁きに心の耳を傾けるよう、預言者は勧めているのだと思います。私たちの住んでいるこの現代世界は、次第に終末的様相を呈し始めているようにも見えますが、終末は神による被造物世界の徹底的浄化刷新への生まれ変わりを意味しており、それは、人となられた神の子と、その神の子の命に生かされて生きる無数の人間の働きによって、長い年月をかけてゆっくりと準備された後に、突然に世界の表に現われ実現するもののようです。ちょうど最後の晩餐から受難死・復活までの短時日のうちに成就したメシアによる贖いの御業が、その前にメシアの誕生・成長・宣教活動という長い年月の生命的準備期を基盤としているように。聖書の言葉が、神の子メシアの来臨を終末時代の始まりとしていることも、注目に値します。

    本日の福音は、ヨハネ福音の序文(プロローグ)からの引用ですが、この世に来臨なされた神の子メシアの本質が何であるかを教えていると思います。それによると、かわいい幼子の姿で赤貧の中にお生まれになったメシアは、実は永遠に存在しておられる神で、万物を創造した全能の神のロゴス、すなわち神の言葉であり、全ての人を生かす神の命、全ての人を照らす神の光なのです。「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった」という、ただ今朗読された聖句に注目しましょう。その言葉は、私たち人間の言葉とは全く違う、愛の命と光とに溢れている全能の神の言葉なのです。この言葉、すなわちロゴスは、三位一体の共同体的愛の交わりの中では永遠に明るく燃え輝いている光ですが、神に背を向け目をつむる暗闇には理解されず、その暗闇の勢力下に置かれて、神に背を向けて生きる暗い罪の世に呻吟し、道を求めている人たちを訪ね求めて救うため、己を無にして本来の光と力をそっと隠し、赤貧の内にか弱い幼子の姿でこの世にお生まれになったのです。私たちのこの日常的平凡さの中に、深く身を隠して現存しておられる神のロゴスを、温かく迎え入れるか冷たく追い出すかの態度如何で、人間は自ら自分の終末的運命を決定するのだと思います。恐るべき終末の審判は、今すでに始まっていると言ってもよいでしょう。

    本日の福音の後半には、人となってこの世に来臨した神のロゴスについて語られています。ご自分の民の所へ来たのに、その民は受け入れなかった、という悲しい言葉が読まれますが、しかし、受け入れた者には神の子となる資格を与えた、という喜ばしい言葉もあります。罪に穢れたこの世の暗い内的闇の勢力に囲まれて生きている私たちには、自分の力、自分の努力によって神の子の資格を得たり、その恩恵に浴したりすることは全く不可能ですが、己を無にしてこの世にお生まれになった神のロゴスが、ご自身を信じ、ご自身により頼む全ての人にその恵みを無償で与えて下さいます。社会の伝統的秩序や価値観が悪を統御する力を失って、闇の勢力が世界中に跋扈する様相を呈し始めている今日、私たちを神の子とし、全能の神の働きによって罪の闇から救い出して下さるため、この世にお生まれになった神の御子にひたすら縋り、私たち自身も神の御子に倣って己を無にし、貧しさ・小ささを愛すること喜ぶことにより、内的に深く神のロゴスに結ばれるよう努めましょう。クリスマスに当たり、絶望的不安のうちに真の道を捜し求めている多くの人々の上にも、そのための導きの光と恵みの力とを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。