2012年12月9日日曜日

説教集C年:2009待降節第2主日(三ケ日)


朗読聖書: . バルク 5: 1~9.  Ⅱ. フィリピ 1: 4~6, 8~11.

     Ⅲ. ルカ福音 3: 1~6.

   本日の福音の始めに登場するローマ皇帝ティベリウスは、紀元12年に高齢のアウグストゥスと共同支配の皇帝とされたので、この年がティベリウス治世の第一年とされています。従って、その治世の第15年は紀元26年になりますが、紀元14年夏にアウグストゥスが没すると、いろいろな勢力の言い分が複雑に絡み合って混迷の度を深めつつあった、当時の多様化した政治に嫌気がさし、自分の親衛隊長であったセヤーヌスに政治を任せて、自分はナポリに近いカプリ島に退き、何年間も静養を続けていました。このセヤーヌスはユダヤ人が大嫌いで、紀元6年から14年まではユダヤ人の気を害さないようにしながら統治していたローマのユダヤ総督3人の伝統を変えさせ、15年からはユダヤ人指導層に強い弾圧を加えさせました。それで紀元5年から終身の大祭司になっていたアンナスは15年に辞めさせられて、アンナスの5人の息子が次々と大祭司になりましたが、彼らも次々と辞めさせられ、18年にはアンナスの娘婿カイアファが大祭司になって、何とか第四代ローマ総督Valerius Gratusの了承を取り付けました。しかしユダヤ人たちは、律法の規定によりアンナスを終身の大司祭と信じていましたから、表向きの大祭司カイアファの下で、アンナスも大祭司としてその権限を行使していました。これは、それまでには一度もなかった異常事態でしたが、ヘロデ大王の時には一つに纏まっていたユダヤの政治権力も分裂して、本日の福音に読まれるように、複雑な様相を呈していました。第五代ローマ総督Pontius Piratusが紀元26年に就任した時は、そういうユダヤの分裂と対立が静かに深まりつつあった時代だったのです。

   ユダヤ教の伝統がローマ帝国からの圧力で歪められ、ユダヤ社会も貿易商たちを優遇して貧しい農民たちに厳しいローマ帝国の税制のため、キリスト時代には貧富の格差が急速に広がり、それまで先祖から受け継いだ土地を何とか保持していた農民で、税金納入のためその土地を売り払い、小作人になった人たちや日雇い労働者になった人たちが少なくなかったと思われます。この事は主がお語りになった譬え話の中にも反映しています。

   私たちの生きている現代社会も、外的には文明と商工業の発達で豊かではありますが、ある意味では少し似ていると思います。価値観の多様化と複雑さの中で、家庭でも社会でも共同体が内部から崩壊し始め、各人ばらばらに生活する個人主義が広まっていますし、貧富の格差も大きいようです。日本の厚生労働省の発表によると、わが国で生活に苦しむ人の割合を示す相対的貧困率は2007年で15.7%、すなわち7人に1人は貧困に苦しんでいるそうです。国際的貿易商たちが去来して比較的豊かであったキリスト時代のユダヤでも、察するにそれ以上の割合で貧困者たちがいたのではないでしょうか。

   ユダヤ社会がこのような様相を露呈し、社会道徳も乱れつつあった時に、神の言葉が、荒れ野のエッセネ派の所で成長し修行を積んでいた洗礼者ヨハネの心に降ったのだと思います。ルカは、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ」とイザヤ書にある預言を引用して、洗礼者ヨハネの活動を描写していますが、この預言の続きは、「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。云々」と、その神の声がもたらす結果が受動形で述べられています。これは聖書によく見られる「神的受動形」と言われるもので、神を口にするのが畏れ多いので、神の働きやその結果を受動形で表現しているのだと思います。従って、谷を埋め、山を低くし、道をまっすぐにするのは、皆神ご自身のなさる救いの業であると思われます。そして人は皆、神によるその救いを仰ぎ見るのだと思います。

   使徒パウロは本日の第二朗読の中で、入信した人々が神の霊によって与えられる知る力と見抜く力とを身につけて、神の愛にますます豊かになり、本当に大切なことを正しく見分けることができるように、そしてキリスト来臨の日に備えて清い者となり、キリストによる救いの恵みを溢れる程に受けて、神の栄光を永遠に称えることができるようにと、祈っています。待降節には、神の働きを正しく識別する力を願う祈りが特に大切だと思います。使徒パウロは、正邪の識別が極度に難しく、混迷の度を増している現代のグローバル世界に生きる私たちのためにも、正しく見抜く力、見分ける力の大切さを強調し、あの世で私たちのためにも祈っていてくれるのではないでしょうか。

   私たちが日々唱えているお告げの祈りは、一つの神秘を秘めています。多くの人は、神はまず天使を介して乙女マリアの承諾を得てから、その御子をこの世にお遣わしになったと考えており、そのように説明している信心書もありますが、この祈りは違います。「主のみ使いのお告げを受けて、マリアは聖霊によって神の御子をやどされた」と、天使のお告げと同時に神の御子がやどられたことを示しています。「お言葉通りになりますように」というマリアの承諾は、その後に続いています。これが事実なのではないでしょうか。不肖私が、この道に召された時も同様でした。私が62年前の夏に洗礼を受けた2週間後に、教会の伝道婦さんの部屋をノックして開けた途端に、「私も司祭になりたい」という、それまで思ってみもしなかった言葉が、私の口をついて出てしまったのです。驚いたのは、伝道婦さんよりも私の方でした。しかし、大きな不安の内に聖堂に入って祈り始めたら、心に平安と新しい喜びが与えられました。それでこれが私に対する神の御旨だと信じ、司祭への道を歩み始めましたが、今考えると、あの時この道に進んで良かったと、神の大きな恵みに幾度も感謝しています。

   まず神が働いて下さるのです。私たちはその神の働きを見出してそれに承諾し、御旨のままに従順に生きよう努めれば良いのだと思います。私はその後もごく小さなことで数多く神の不思議な働きかけを体験し、それに従おうと努めつつ、ここまで仕合わせな人生を営んで来ましたが、使徒聖パウロの改心の時も、まず神の働きがあって、パウロはそれに従って新しく生き始めたのではないでしょうか。パウロは私たちの平凡な日常生活の中での神の現存と働きを鋭敏に見分け、正しく見抜く信仰感覚を重視していたと思います。そこから私たちの救いも幸せも始まるのですから。本日の第二朗読にある「知る力と見抜く力とを身に付けて、あなた方の愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そしてキリストの日に備えて、清い者、咎められるところのない者となり、云々」という使徒パウロの祈りが、一人でも多くの人の内に実現しますよう願い求めつつ、本日のミサ聖祭をお献げしましょう。