2012年12月30日日曜日

説教集C年:2009聖家族の祝日(三ケ日)



朗読聖書:. サムエル上 1: 20~22, 24~28. . ヨハネ第一 3: 1~2, 21~24. Ⅲ. ルカ福音 2: 41~52.

    私たちはこの修道院創立の頃から、三ヶ月に一度土曜日か日曜日に、浜松から豊橋に至るまでの地元民の上に神の豊かな祝福を願い求めてミサ聖祭を献げていますが、本日のミサはその意向で献げられます。ご一緒にお祈りください。現代には家族共同体の和が崩れつつある家庭が増えているようですが、特にそういう悩みを抱えている家族たちのために神の憐れみと導きを願い求めましょう。

    本日の福音には、過越祭の巡礼団に参加して両親と共に聖都エルサレムに滞在した、12歳の少年イエスの言葉が読まれます。福音書にはそれ以前のイエスの言葉が全く載っていませんから、この言葉が、私たちに残された主イエスの最初の言葉になります。過越祭の祭りが終わって、ヨゼフとマリアは、ナザレからの巡礼団の男組と女組とに分かれてエリコ辺りにまで行ってから、一緒に野宿しようとしましたら、巡礼団の中に少年イエスがいないことに初めて気づきました。それまでは毎年、イエスは母マリアと一緒に女組に属して巡礼していたと思います。それが当時の男の子の慣例でしたから。しかし、男の子は12歳頃から男組に移行する慣例になっていましたから、ちょうどその境目の時でしたので、マリアはイエスがヨゼフと共にいると考え、ヨゼフはまだマリアと共にいると考えて、帰路最初の一日分の道のりを巡礼団と共に歩いたのだと思います
    ところが巡礼団の中にはいなかったので、野宿の後、二人は巡礼団から分かれて、心配しながらエルサレムに戻り、夕刻になっても知人の家々を訪ね歩いて、少年イエスを捜しまわったのだと思います。そして三日目の朝に漸く神殿の境内にいるイエスを見つけ、母が「なぜ (無断で) こんなことをしたのですか。ご覧なさい。お父さんも私も、心配して捜していたんです」と、詰問したのだと思われます。それに対する少年イエスのお答えは、日本語の邦訳では、「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」となっていますが、これは聖書の原文とは違っています。主はそのように話されたのではなく、もっと神秘的な言い方をしたのです。ギリシャ語の原文を直訳しますと、「なぜ私を捜されたのですか。自分の父のにいる筈だ、ということを知らなかったのですか」となります。「自分の父のにいる」では読者に解り難いという理由で、欧米の近代語でも、それに倣う日本語でも「自分の父の家にいる」と言葉を補って翻訳したのだと思われますが、それでは主イエスの真意が歪められたことになり、逆に「なぜ父の家に?」という疑問も生じて来ます。殊に本日ここで読まれた日本語訳のように、「私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを」などと訳しますと、母のマリアもそのまま黙って引っ込みはしなかったと思われます。そんなことは「当たり前」ではないのですから。

    実際にはしかし、主イエスは12歳ながらよく考えた神秘的表現で、「自分の父のにいる」とお答えになったのだと思います。事によると、主はその時父母に大変なご心配をかけたことで、目に涙を浮かべておられたかも知れません。それで両親は、イエスの言葉の意味が分からないながらそのままに受け止めて、その言葉について尋ねることはしなかったのだと思われます。イエスはすぐ両親と一緒にナザレに帰り、それまで通り両親に仕えながら生活なされたようですが、聖母マリアは自分の産んだイエスが天の神を「自分の父」と初めて表現したことから、この時からイエスに対する態度を幾分変更し、これらのことを全て心に納め、改めて考え合わせるようになったのではないでしょうか。

    私の勝手な推察ですが、12歳になった少年イエスは、この巡礼の時にエルサレム神殿で生まれて初めて神からの呼びかけの声を聞き、神を「自分の父」と表現し始めたのではないでしょうか。そしてその父なる神の声に従って神殿に留まり続け、巡礼団と一緒に行動しなかったのだと思います。その行為が両親に大きな心配と迷惑をかけることは、後でお気づきになったと思います。しかし、人間社会の論理や通念で両親に迷惑をかけたことを謝ろうとはせず、天の父なる神は、罪のない敬虔な信仰者たちからも、多くの人の救いのために時としてこのような苦しみや犠牲をお求めになることを示すために、あのような解り難い神秘的返事をなさったのだと思います。私たちもこの世の社会的通念だけで善悪を判断したり行動したりしないよう気をつけましょう。天の父なる神は時として私たちの平凡な日常生活にも介入し、思わぬ苦しみや犠牲を喜んで捧げることをお求めになります。神からのその突然のお求めに適切に対応できるよう、照らしと導きの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭をお献げ致しましょう。