2013年1月1日火曜日

説教集C年:2010年神の母聖マリアの祝日(泰阜のカルメル会で)



朗読聖書: . 民数記 6: 22~27. Ⅱ. ガラテヤ 4: 4~7.
     Ⅲ. ルカ福音 2: 16~21.

    元旦の本日はカトリック教会で「世界平和の日」とされており、世界平和のために特別に祈る日ですので、このミサ聖祭も、ローマ教皇の意向に従い、全世界の教会と一致して世界平和のために神の照らしと導きの恵みを願い求めてお献げ致します。ご一緒にお祈り致しましょう。

    「私は主の婢です」と返事して、神の御子を懐妊することに承諾し、神の母となられた聖母マリアについて黙想する時、私はよく紀元2世紀から3世紀初頭にかけての偉大な教父聖エイレナイオスの模範に倣って、創世紀の神話の中で教えられている人祖の罪も考え合わせます。聖エイレナイオスは2世紀に流行した各種グノーシス異端を批判し退けたその著『異端駁論』の中で、人祖エワと聖母マリアの精神の違いを明記しているので、「マリア学の生みの親」と呼ばれています。神はアダムをお創りになった時、その鼻に命の息を吹き入れて、それまでにお創りになった全てのものを支配するようお命じになりました。ここで「命」とあるのは、刻々と過ぎ行く儚いこの世の命ではなく、永遠に死ぬことのないあの世の命、神の愛の霊が参与させて下さる超自然の命を指していると思います。そのアダムの助け手としてアダムの体から創られたエワも、同じ愛の命の息を受けていたと思います。聖書の近代語の翻訳には、ここであの世の命とこの世の命を区別せずに、すべて一律に「命」と翻訳していますが、聖書の原語であるヘブライ語やギリシャ語には、この世の命とあの世の永遠に死なない命とでは異なる言葉を使用されており、この区別はラテン語の翻訳においても守られています。

    また人祖に与えられた「支配せよ」という命令は、自分中心に支配せよという意味ではなく、神から吹き入れられたその愛の息吹、神の御旨中心に生きる超自然的命の導きに従って、神の子として支配せよという意味だと思います。エデンの園の中央には命の木善悪の知識の木が生えていましたが、もし人祖たちがその命の木の実を食べていたら、彼らの心の内に神の奉仕的愛の命が逞しく育って来て立派に全ての被造物を統治しただけではなく、死の苦しみを味わうことなく、神の永遠の栄光へと召し上げられていたと思います。しかし、エワは好奇心に駆られてか、まず善悪の知識の木に近付き、蛇の姿をとって現れた悪霊に「神のようになる」と騙されて、じっくりとその木の実を眺め、それを食べると神のように賢くなるように思ってしまいました。それでその木の実と取って食べ、夫アダムにも食べさせました。

    すると途端に、それまで自分たちの心を支えていた神の奉仕的愛の息吹は消えてしまい、心は急に寂しく不安になったようです。神の被造物・神の所有物・神の愛の道具として、神の御旨中心に、いわば神の僕・婢となって神の支配に奉仕する生き方を拒み、神のように賢くなろう、自分中心に自分の力で自由に生きようとしたからだと思います。彼らはまず自分が裸であることに気づき、いちじくの葉をつづり合わせて、自分の腰を覆うものを作りました。これからも、神のお創りになった神の所有物を、次々と自分の望みのまま自分のために利用しながら、自分中心に生き続けることになるでしょうが、神の奉仕的愛の息吹に内面から生かされていないその生き方、その精神が、神の忌み嫌われる罪というものだと思います。善悪の知識の木の実は自分たちにとって善か悪か、自分たちにとって善か悪か、利用価値価値があるか否かの、人間中心の知識を優先させる木の実だったようです。

    2千年前のユダヤでは、ユダヤ教指導層のサドカイ派やファリサイ派の人たちも、自分たちの望み中心、自分たちの知識や聖書解釈を中心にユダヤ社会を指導し、神の御旨中心に生きるよう悔い改めを説く洗礼者ヨハネの呼びかけには耳を貸そうとしませんでした。小さな者・弱い者を冷たく蔑視していたそういう人たちの統治するユダヤ社会の、貧しい最下層に神の御子がか弱い幼子の姿で生まれ、自分の手に抱かれているのを見た時、聖母マリアはどれ程深い感動を覚えたことでしょうか。神の婢として小さく清く生きておられた聖母は、マグニフィカトの讃歌にあるように、これからは小さな者・弱い者を介して神の救いの力が働き、奢り暮らす者たちを退け、見捨てられた人を高めて下さる新しい時代が始まったのだ、という感動を新たにしたことでしょう。私たちもその感動を改めて想起し、追体験するよう心がけましょう。
    当時の僕や婢は、主人がどういう将来計画を持っているか具体的には何も知らず、ただその時その時の主人の言葉に従って奉仕するだけでした。聖母マリアも同様に、これからの自分の人生が、また神から授かったこの幼子の人生がどのようなものになるかは全く知らず、ただその時その時に神から示される御旨にすぐ忠実に従おうとしておられただけであったと思います。夜中に急いでエジプトへと避難したり、またナザレトの平凡な貧乏生活に隠れたりと、その人生は波乱に富んでいました。しかし、最低限必要なものはその時その時に神から支給されていたと思います。人類が最も必要としている救いも平和の恵みも、人目に隠れたこの小さな僕・婢たちの従順をお喜びになる神ご自身によって準備され、実現する恵みであると思います。

    今年一年、私たちの将来に何が待っているか、どんな幸運あるいは不運が訪れようとしているのか、私たちも全く知りません。しかし、僕・婢の精神で日々何よりも神の御旨に心の眼を向けながら、神への信頼と愛の内に生きておられた聖家族の模範にならい、私たちも今年一年同様の精神で生きる決心を新たに神にお献げしましょう。そうすれば、神は私たちのその小さな心がけをご覧になって、世界平和のためにも多くの人の幸せのためにも、ご自身で人々の心の中にお働き下さると信じます。平和の基礎は自分中心に考え主張する心に死んで、相手と共に仲良く生きようとする自己犠牲的奉仕的愛の精神にあると思いますが、このような愛は、神の働きによって心の中に生まれ育つ神の恵みであると信じます。神はその御旨を屡々平凡な日常茶飯事の中で出遭うごく小さな出来事や兆しを介してお示しになります。それらを軽視しないよう、心がけましょう。そして神の御旨中心の従順心を磨く導きと、神のお働きを鋭敏に感知する信仰のセンスも祈り求めましょう。こうして今年も神による救いと平和の恵みが、多くの人の上に豊かに与えられるよう願いつつ、本日の感謝の祭儀を献げましょう。







『ヴァチカンの道』60 (2009/12/25発行) 所収