2013年1月27日日曜日

説教集C年:2010年間第3主日(三ケ日)

朗読聖書:  Ⅰ. ネヘミヤ 8: 2~4a, 5~6, 8~10.
                Ⅱ. コリント前 12: 12~30. 
                Ⅲ. ルカ福音 1: 1~4;  4: 14~21.

 
    本日の第一朗読であるネヘミヤ記は13章から成っていて、7章までの前半はエルサレム城壁の修築について、8章からの後半は祭司エズラによる律法の公布と、総督ネヘミヤによるユダヤ社会の改革について扱っています。70年間余り続いたバビロン捕囚の後、バビロニアを滅ぼしたペルシャの国王から、ユダヤ人たちに故国に帰って神殿を再建することが許され、必要な権限や資金も与えられると、ユダヤ人全員ではありませんでしたが、帰国したユダヤ人たちは紀元前515年に一応神殿を再建しました。しかし、隣国のサマリアを統治するペルシアに従属する総督は、サマリア人たちを軽蔑して神殿の再建にも儀式にも参加させず、共に生きようとしないユダヤ人たちをペルシャ帝王に訴えて、エルサレムの政治経済的再興に積極的に協力しなかったため、エルサレムのユダヤ人たちは間もなく経済的に行き詰まり、やがて周辺諸部族による襲撃も受けて、神殿礼拝も行われなくなる程悲惨な状態になったようです。

    そこで、ペルシャの第二の都スサで帝王アルタクセルクセス1世に愛されて奉仕していたユダヤ人の高官ネヘミヤは帝王に願い、エルサレム再建のために必要な権限と援助を与えて派遣してもらい、まずエルサレムを周辺の諸部族による襲撃から安全にするため、片手に剣を持たせ、片手に煉瓦を積み上げさせながら、壊されたエルサレムの城壁を修復させました。この工事が完成すると、ネヘミヤは一旦スサの都に戻って帝王から新たに権限と援助を受け、大祭司の家系出身でモーセ五書の律法に精通していた祭司エズラの教えに基づき、ユダヤ社会を律法を基礎として再建することに尽力しました。

    エルサレムでのその宗教的社会改革の初日についての話が、本日の第一朗読であります。祭司であり書記官であるエズラが、用意された木の壇の上に立ち、会衆にむかって荘厳に律法の書を読み聞かせ、レビ人がその意味を解き明かすということを夜明けから正午頃まで繰り返し続け、最後に総督ネヘミヤと祭司エズラと解説したレビ人が、「今日は我らの主にささげられた聖なる日だ。云々」と宣言して、この日を喜び祝うことにしたのでした。「嘆いたり泣いたりしてはならない」とあるのは、神から与えられたその律法を知らなかったために為していたこれまでの生き方の罪深さに囚われて、後ろ向きの後悔に終始していてはならない、という意味だと思います。神によって自分の失敗、自分の罪に気づかせて頂いたなら、謙虚にそれを受け止めると同時に、感謝と新しい希望の内に喜んでその失敗、その罪から立ち上がって生き始めたら良いのですから。ちょうど重い十字架を背負わせられた主イエスが、ゴルゴタへの途中で幾度倒れても、倒れたままに留まることなく、すぐにそこから立ち上がって歩まれたように。

    本日の第二朗読には、「私たちは、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。云々」という言葉が読まれましたが、使徒パウロの強調するこの指摘も忘れてならないと思います。主キリストの制定なさった洗礼は、死と生命の泉のような秘跡であります。自分が主導権を握っている自分中心の生き方に死んで、神が主導権を持つ神中心の霊的生命に生かされる恵みを与える泉なのです。洗礼の秘跡を受けたその時一回だけ死ぬのではありません。自分中心に生きようとする古いアダムのこの世的命、この世的精神は、その後も事ある毎に自分中心主義の頭をもたげようとしますので、その度毎に私たちの霊魂の奥底に地下水のように現存している洗礼の泉から恵みの水を汲みとり、絶えず新たに自分中心の精神に死んで、神中心の僕・婢として生き方に立ち返るようにと、私たちの霊魂には泉のような洗礼の秘跡が与えられているのです。その泉を、古井戸のようにしてしまわないよう心掛けましょう。

    そして私たちは皆、聖体拝領の時に一つの神の霊を飲ませてもらっているのです。「主のからだ」という言葉を聞いて、そこに復活なされた主キリストを眺めるだけでは足りません。目には見えなくても、その体には聖霊という神の御血も流れており、その聖なる御血によってキリストの体は生かされているのですから。ミサ聖祭の奉献文を調べてみますと、どの奉献文にも、「これは私の体です」という主キリストの言葉の前に、「神がこれを祝福し、主イエス・キリストの御体と御血にして下さいますように」とか、「聖霊によってこの供え物を尊いものにして下さい」とか、「聖霊がこの献げものを尊いものにして下さいますように」などという祈りが必ず入っています。これは古代教会以来の伝統です。それで東方教会では昔から、聖変化はキリストの言葉によってではなく、聖霊によってなされるのだと、今も信じています。ちょうど聖霊が聖マリアの許に下ることによって、キリストの体が造られたように。ですから、主の御聖体のある所には聖霊も一緒に現存し、その体を生かしているのです。使徒パウロの「皆一つの霊を飲む」という表現は、この信仰に根ざしていると思います。

    使徒が続けて「体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。云々」と説いている教えも、大切だと思います。その教えを今風に言い直すなら、私たちは皆洗礼と聖体の秘跡によって、復活なされた主キリストの体の細胞になっているのです、と表現してもよいと思います。生物体の各細胞は皆、それぞれ多少の主体性を堅持しながら、より大きな命の力や血によって生かされている存在で、その大きな命の力から離れるならば、灰に帰してしまう儚いものであります。このことをいつも心に銘記し、主キリストが身をもってお示しになったように、何よりも父なる神の霊の働きや導きを鋭敏に感知し、それに従って生き且つ働くよう努めましょう。自然界の動植物の種類の多さからも分かるように、神は多様性の愛好者で、相異なる者が全体の生態系を乱さずに協力し合い、共に喜んで神の愛に生きることを望んでおられます。人間界にも驚くほど多種多様の素質・考え・性格の人々がいますが、皆心を大きく開いて互いに相手を受け入れ、協力し合って全体の福祉発展に尽くすことを、神は望んでおられるのではないでしょうか。同様に主キリストの体とされている私たちキリスト者も、多種多様の素質・考え・性格のキリスト者と心を開いて協力し合いながら、神の御計画実現のために働くよう召されていると思います。これが、本日の第二朗読の趣旨だと考えます。

    ご存じのように、毎年118日から25日までは「キリスト教一致祈祷週間」とされています。それでこのミサ聖祭は、カトリック教会をはじめキリスト教諸派が、神を目指す人間たちがそれぞれ善意から主導権をとって造り上げて来た伝統的教義や組織に、一旦内的に死んで自由になり、素直な小羊のように大牧者キリストの御声を正しく聞き分け、それに忠実に聞き従うことによって一つの群れになる恵みを願い求めるために、お献げしたいと思います。ご一緒にお祈り下さい。