2013年1月13日日曜日

説教集C年:2010主の洗礼(三ケ日)


朗読聖書: . イザヤ 40: 1~5, 9~11. 
                . テトス: 2: 11~14,3: 4~7.  
         Ⅲ. ルカ福音: 3: 15~16, 21~22.

    本日の第一朗読であるイザヤ書は、1章から39章までは神の民の罪を糾弾して神の裁きについて預言している紀元前8世紀のイザヤのものですが、40章から54章までは紀元前6世紀のバビロン捕囚頃の第二イザヤのものとされています。この第二イザヤ書は、旧約聖書の中でも新約時代の喜びの福音に最も近い預言書の一つと言ってよいと思います。本日ここで朗読された個所は、その第二イザヤ書の序曲ともいうべき個所であります。はじめに「慰めよ」という神の御言葉が二度も繰り返されています。神はバビロンの大軍によってエルサレムが滅ぼされ捕囚の身となった神の民に、全能の神の力に頼って生きる、新しい希望と喜びを与えようとしておられるのだと思います。

    しかし、羊の群れを導き養われる羊飼いのような神の導きと働きに聞き従うには、まずこれまでの人間の考えや望み中心の生き方に死んで、神のお導きや御旨中心のあどけない素直な幼子や小羊の心に立ち返り、人間の望みや考え中心のこれまでの生き方で築かれた諸々の山や丘を崩し、荒れ地をならす必要があります。第二イザヤは、神の御旨中心の神の僕・神の婢のその新しい生き方を教えようとしていると思います。本日の福音に登場する洗礼者ヨハネも、民衆にそのような新しい生き方をさせるために悔い改めの説教をなし、水による悔い改めの洗礼を授け始めたのだの思います。

    ところがメシアである主イエスは、民衆が皆ヨハネの洗礼を受けにやって来ていた時、その民衆の群れに混じってヨハネの洗礼を受けに来たので、ヨハネは驚いたのだと思います。マタイ福音によると、ヨハネは恐縮して「この私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、云々」と申し上げて、主に受洗を思い止まらせようとしましたが、主は「今はそうさせてくれ。このように全ての義を満たすのは、私たちに相応しいことだから」と答えて、ヨハネから悔い改めの洗礼をお受けになりました。もし主のこの受洗が公然と書き残されるなら、主は清めを必要としている罪人だったと誤解される恐れがあります。そこでマタイは、二人の間のこのような会話を福音に載せたのだと思います。誤解される恐れが大きいにも拘らず、四人の福音史家が揃って主の受洗について書いていることを考えると、主の受洗は、人類救済の上に大きな意味を持つ史実であったと思われます。それはどんな意味でしょうか。察するに、公生活を始める当たって、まず御自ら全人類の罪を背負い、罪深い民衆の中の一人となって、ヨハネから悔い改めの洗礼を受けるのが、天の御父の御旨だったのではないでしょうか。主のお言葉にある「義」という言葉は、御父神のこの御旨のことを指していると思います。

    主がヨルダン川の濁流に全く沈められ、そこからすぐに立ち上がって祈っておられると、その時天が開け、聖霊が鳩の姿で主の上に降って来ました。そして天から「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が、聞こえて来ました。それは、詩篇2番とイザヤ42章に預言されていた通りの言葉ですが、同時に聖霊が主の上に降ることによって、この方が洗礼者ヨハネが預言したとおり、聖霊によって洗礼を授けるメシアであることを神ご自身が証しなされたことを示す、言わば一種の主の御公現であると思います。こう考えますと、ヨルダン川での主の受洗は、救い主としての務めへの主の就任式といってもよいのではないでしょうか。そして聖霊の降下は、その任務を遂行する力の授与だったのではないでしょうか。救われるべき民衆と救い主とを結ぶ接点、それがメシアご自身もお受けになった、ヨハネの悔い改めの洗礼であると思います。

    私たちも、救い主による救いの恵みを受けて豊かな実を結ぶには、悔い改めの洗礼を受けて自分の奥底の魂の肌に深い傷をつける必要があるのではないでしょうか。さもないと、救い主による洗礼を受けても、その恵みは魂の奥にまでは入り込まず、魂の奥にはいつまでも原罪の名残である自我中心の精神が居残っていて、神の愛に生かされて生きることができないのではないでしょうか。新約時代の恵みは、旧約時代の準備を基礎にして与えられたものです。キリストによる洗礼を受けた者には、洗礼者ヨハネの説く悔い改めは必要ないなどと、短絡的に考えないようにしましょう。洗礼者ヨハネから受洗なされた主は、今の私たちにも、「我に従え」とおっしゃっておられるのではないでしょうないでしょうか。

    本日の第二朗読には「私たちが行った義の業によってではなく」という言葉が読まれますが、私たちが救われるのは神のために為した自分の努力や実績によるのではないのです。私たちは一旦自分に絶望し、自分に死んでひたすら神の憐れみに縋る必要があります。その生き方へと魂を立ち上がらせるヨハネの悔い改めの洗礼は、現代の私たちにとっても必要であると思います。主はそのことを教えるためにも、ヨハネの洗礼をお受けになったのではないでしょうか。主に見習って、私たちも日々悔い改めに励み、魂の奥底にまだ残っている自我の部厚い肌に深い傷をつけつつ、そこから神の無我な愛が、新約時代の洗礼の水が魂の奥にまでしみ込むように致しましょう。本日はそのための勇気と忍耐と導きの恵みを神に願い求めつつ、ミサ聖祭を献げましょう。