2012年12月24日月曜日

説教集C年:2009降誕祭夜半のミサ(三ケ日)



朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 9: 1~3, 5~6. Ⅱ. テトス 2: 11~14.
     Ⅲ. ルカ福音 2: 1~14.

    毎年今宵のミサの福音を読む度に、私はよく1964年の冬にイタリア中部の小さな山の上の古い田舎町フィウッジで、3週間ほど滞在した時のことを懐かしく思い出します。その町でドイツ系修道女会が経営していた病院の病院付司祭が、しばらく故国ドイツで休みを取りたいので、その間代わりに病院に滞在しミサを捧げたり、場合によっては死に逝く病人の世話や、葬儀も担当したりするようにとの依頼でしたので、当時ローマ教皇庁からの聴罪免許証を持っていて、毎日曜日の午前にローマのサン・ベネデット教会で聴罪師の仕事を手伝っており、ドイツ人会員の多くいたローマの本部修道院に住んでドイツ語も話していた私に、その依頼が回されて来たのだと思います。

    修道女経営のその病院に滞在していて、イタリアの古い埋葬慣習のことやその他様々のことを新しく学びましたが、その一つは、もう今はいなくなったイタリアの貧しい羊飼いと、羊を入れて置く町外れの半分洞窟になっている家畜小屋などにめぐり合ったことであります。ルネサンス時代のイタリアの画家たちは、こういう田舎町の外にある家畜小屋を見慣れていたので、「マリアが生まれた赤子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」という聖書の記事を読むと、救い主はベトレヘムの町の外に生まれたのだと思ったようですが、これは古代教会の理解とは違っています。…..

    私はその前年の夏にも、ローマに留学している優秀な神言会神学生たちが、ローマの北50キロ程の避暑地の丘上に建つ神言会の家に2週間余り滞在した機会に、ミサ聖祭を捧げる司祭として、また会計係として一緒に生活するようにと院長から依頼され、サン・ヴィトと呼ばれたその村の家にも滞在しましたが、その時神学生たちと一緒に中型のマイクロ・バスで古代ローマの有名な詩人の一人 Horatius の故郷の山、monte Soratteという高さ百メートル程の山に遊びに行きました。このHoratiousという詩人は、救い主がこの世にお生まれになる直前に、全領土の住民登録を命ずる勅令を出したAugustus皇帝の下で活躍した詩人で、Augusatusが確立した「ローマの平和」と、その下での田園生活の楽しさや、貧しい人・苦しむ人たちへの温かい思いやりなどを、情熱を込めて詠いあげた人であります。

    そのmonte Soratteという山は、古代にはローマ市を北方からの敵から守る砦の一つとされていましたが、ゲルマン民族によって西ローマ帝国が滅ぼされると、中世初期には異教寺院の山に変わり、その後キリスト教が田舎の諸地方にまで普及すると、その寺院の廃墟だけが残る山となってしまいました。私たちが46年前にその山に登った時には、まだその寺院の廃墟が部分的に残っていましたが、傾斜の緩やかな登山道が一本しかなく、他は皆数十メートルの岩の絶壁に囲まれているその山全体は、麓に大きな屋敷を持つ農家の、羊や山羊の放牧場になっていました。周辺地方一帯に眺望の効くこの山の上でも、一つ珍しい体験をしました。(迷羊の話)

    ベト・レヘムはヘブライ語で「パンの家」という意味ですが、二千年前にそのベトレヘムでお生まれになった救い主は、今宵はパンの形で私たち各人の内に、神からのご保護と救いの恵みを豊かにもたらすためにお生まれになるのだと信じます。理知的な人たちは、その信仰を子供じみた夢として軽蔑するかも知れません。しかし、冷たい合理主義や能力主義、あるいは自分の権利主張などが横行して潤いを失っている社会に、温かい思いやりや赦しあう献身的奉仕の精神をもたらすには、心が夢に生きる必要があります。体や頭がどれほど逞しく成長しても、心の奥底にはいつも素直で純真な子供心というものが残っていて、それが同じことの繰り返しでマンネリ化し勝ちな私たちの日常生活に、いつも新たに夢や憧れ、感動や喜びなどを産み出してくれます。そして数々の困苦に耐えて生き抜く意欲も力も与えてくれます。私たち各人の命の本源は、その奥底の心にあるのです。救い主も、夢を愛するその奥底の心の中にお出で下さるのです。二千年前の救い主の誕生前後に、ヨゼフも東方の博士たちも、夢によって教え導かれましたが、神は今も度々夢を介して私たちを教え導かれます。夢を愛する子供心を大切にしましょう。今宵の聖体拝領の時、二千年前の聖母のご心情を偲びつつ、神のため社会のために私たちの授かる恵みの御子を心の内に内的に育てよう、そして神による救いの恵みがこの御子によって周囲の社会に行き渡るよう奉仕しよう、との決心を新たに堅めましょう。

    今宵主の降誕祭の記念ミサを捧げている私たちの目の前に、救い主は幼子の姿でお生まれになることはありませんが、しかし、内的には私たち各人の心の内に密かにそっとか弱い幼子の姿でお出で下さり、もし私たち各人が心を開いてその主をお迎えするならば、私たちの心の願いをしっかりと受け止め、その達成のために尽力して下さると信じます。子供騙しの夢のような話ですが、信じましょう。私は63年前に公教要理を学んでいた時、素直な子供心に立ち返って、神が私たちに提供しておられる数々の夢をまともに信じ、全てを神に委ね、神のお望み通りに生きようとし始めました。そうしましたら、今振り返っても驚くほど沢山の不思議な出逢いや恵みの出来事を体験させて戴きました。神は実際に存在し、私たち各人に伴っておられると思います。既に復活してあの世に生きておられる主キリストの、私たち各人の心の中での隠れた誕生、隠れた来臨に対する信仰を新たにしながらこのミサ聖祭を献げましょう。