2012年12月16日日曜日

説教集C年:2009待降節第3主日(三ケ日)

朗読聖書:. ゼファニヤ 3: 14~17. Ⅱ. フィリピ 4: 4~7.

     Ⅲ. ルカ福音 3: 10~18.   

   本日のミサは昔から「喜びのミサ」と呼ばれて来ました。入祭唱に「喜べ」という言葉が二回も重ねて登場するからですが、それだけではなく、第一朗読にも第二朗読にも「喜び叫べ」「喜び躍れ」「喜びなさい」などの言葉が何回も言われているからです。いったい神は、なぜ「喜べ」と言われるのでしょうか。またなぜ「恐れるな」と言われるのでしょうか。第一朗読はその理由を「イスラエルの王なる主がお前の中におられる」から、「主なる神がお前のただ中におられて、勝利を与えられる」からなどと説明し、第二朗読も「主が近くにおられる」からと説いています。しかし、主なる神は単に近くにおられる、あるいは私たちのただ中におられるだけではないのです。第一朗読の末尾には、「主はお前のゆえに喜び楽しみ」「お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」という言葉も読まれます。私たちに対する大きな愛ゆえに喜び楽しんでおられるその神と共に喜ぶよう、神が私たちを招いておられるのではないでしょうか。神が私たちの中におられて愛の眼差しを注いでおられる、私たちを救おう助けようと見つめておられるのだと、信じましょう。そのように信じ、その信仰に堅く立ってこそ初めて、私たちの恐れや思い煩いが全て消えて行くと思います。そして神と共に日々喜んで生きる時に、神の恵みも私たちの内に働き易くなると信じます。

   「愛する」とは、「見つめること」だと思います。神は隠れておられても、私たちをじーっと見つめておられるのです。私たちもそれに応えて、時々その神に信仰の眼を向けるよう心がけましょう。何も言わなくてもよいのです。ただ静かに神に感謝と愛の心の眼を注いでいると、神の霊が私たちの中に働いて、心の奥に深い喜びと安心感を与えて下さいます。日々の黙想の時など、目をつむって神の愛の視線を体の肌で感ずるように心がけましょう。乳飲み児のように素直な心で。そして目には見えないその神の御心に私たちの感謝と愛の心を向けながら、静かに神と共に留まるように努めてみましょう。日々このようなことを続けていますと、不思議に神が私に伴っておられて私を護り導いて下さるのを、小刻みながら幾度も体験するようになります。そしてその小さな体験が積み重なると、私たちの心の中に神に対する感謝と愛が深まってくるのを覚えるようになります。神の霊が私の心の内に、働いて下さるのだと思います。

   本日の福音は、民衆や徴税人・兵士たちの質問や思惑に対する洗礼者ヨハネの返答と申してよいと思います。ヨハネの力強い呼びかけや、悔い改めの洗礼を授ける活動を見聞きした群衆は、いよいよ神が約束なされたメシア到来の時が来たのではないか、と考えたことでしょう。それである人たちは、社会改革やユダヤ独立のために自分たちも何かなすべきではないかと考え、何をしたらよいかと尋ねたのだと思います。ヨハネはそれに対して、貧しい者たち、困っている者たちに下着や食べ物を分けてやるように勧め、徴税人や兵士たちにも同様、規定以上のものを取り立てないように、自分の給料で満足するようになどと、今置かれている地位や職業の中で実践すべき、ごく平凡な兄弟愛と忠実の心構えについて勧めただけでした。群衆は少し拍子抜けしたかも知れません。主キリストも同様に、何かの新しい社会活動や政治活動などではなく、例えば金持ちの青年には、子供の時から教わっている掟の遵守や貧しい人々への施しを勧めるなど、既にユダヤ教会でも子供の時から教わっている教えを実践すること、そして自分の日ごろの生活を厳しく律することだけしか勧めておられません。この点では、洗者ヨハネと同じ立場に立っておられると思います。主は一度「皇帝のものは皇帝に返し、神のものは神に返せ」とおっしゃったこともありますが、ローマ皇帝の政治に対抗するこの世的政治・社会活動よりも、まずは神の働きに従うための各人の生き方の改善・変革を優先して、おっしゃったお言葉であると思います。

   新約のメシア時代には、自分の置かれている所で神に心の眼を向けながら、愛の実践に生きること、日ごろの生活を厳しく律することに努めるなら、そこに主キリストの愛の霊が働いて、その人をも周辺の社会をも変革し、神による救いへと導いて下さるというのが、聖書の教えなのではないでしょうか。私たちの心は、神に眼を向け神の霊を自分の内に迎え入れることによって、清められ変わるのです。それが、待降節に当たって神から求められている改心だと思います。主キリストが始められた新約時代の洗礼はヨハネの洗礼とは違って、聖霊と火による内的洗礼の象りであり、人間の魂を清めて主キリストの御命に参与させ、神の住まい、聖霊の神殿に変える力を持つ洗礼であります。私たちの魂は皆この洗礼を受けて、神の神殿となっているのです。救い主から受けたこの大きな恵みに感謝しつつ、終末の日にその主を少しでも相応しくお迎えできるよう、神への愛と信仰の精神で日ごろの生活を整え、自分の心も厳しく律する実践に努めましょう。そしてそういう信仰実践のための照らしと力とを、今の世に苦しんでいる多くの人々のためにも、本日のミサ聖祭の中で祈り求めましょう。