2011年8月28日日曜日

説教集A年:2008年8月31日年間第22主日(三ケ日で)

第1朗読 エレミヤ書 20章7~9節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 12章1~2節
福音朗読 マタイによる福音書 16章21~27節

① 本日の三つの朗読聖書は、自分中心・人間中心の考えや生き方を捨てて、多くの人の救いのため自分の命をいけにえとして神に献げ、神の御旨に従って生きるように心がけよ、という勧めの観点から選ばれているように思います。第一の朗読聖書は「エレミヤの告白」と呼ばれている個所の一つで、神が告げるようお命じになった御言葉を告げたために、神の都エルサレムとその神殿は滅びることがないと信じていたユダヤ人たちから非難され迫害されたエレミヤが、神にその苦しみを訴えた嘆きの言葉です。もう「主の名を口にすまい、その名によって語るまい」と思っても、神の御言葉は預言者の心の中で火のように燃え上がり、エレミヤはそれを抑えることに疲れ果て、どれ程人々から迫害されようとも、神よりの厳しい警告の言葉を語らざるを得なかったようです。

② この預言者の苦しみと似たような苦しみを感じている人たちは、未だ嘗てなかった程の大きな過渡期に直面している、現代のキリスト教会の中にもいるかも知れません。日本のカトリック新聞にはほとんど載っていませんが、先日この8月のキリスト新聞を通覧していましたら、ドイツのカトリック教会で「教会封鎖めぐり紛糾」という記事がありました。ドイツ北東部のニーダー・ザクセン州のカトリック、ヒルデスハイム教区では、438教会のうち80の教会が閉鎖されると新聞が報じたことからこの紛糾が始まったようです。しかし、ヒルデスハイム教区のトレル司教は、カトリック信者の懸念と怒りは十分に理解するが、他の教会を救いそこを活動の最前線にするために、閉鎖はやむを得ないのだと弁明しています。司祭の不足やその他の理由で千数百年の伝統あるキリスト教が、こうして次々とヨーロッパ社会から消えて行くのを見るのは、司教にとっても本当に苦しい負け戦なのかも知れません。

③ 前にも申しましたように、牧師夫婦の生活費や子供の教員費などを抱えているプロテスタントではカトリック以上に教会維持費の激減に苦しみ、礼拝堂がレストランになったり、リースとなって貸し出されたりしているようです。ヒルデスハイム教区協議会では、そのルーテル派に会堂の共有を呼びかけ、ルーテル派もその構想を歓迎しているそうです。察するに、出席者激減のため日曜日のミサや礼拝は行われなくなっても、せめて葬儀や結婚式などはそれぞれの村で挙行できるよう、会堂の共有案がなされたのだと思います。私が神学生時代から文通していたドイツ人教区司祭を、1970年代に数回訪問した時には、その司祭はSiegenという町の主任司祭を務めながら、その周辺の三つの村の教会も担当していました。察するに、ヒルデスハイム教区で廃止されることになった50の教会というのは、いずれも若者のほとんどが都会に出てしまい、残っている信徒の高齢化も進んで、ミサに参加する人たちが少なくなっている村々の教会ではないかと思われます。

④ 先日フランシスコ会の教会法学者浜田了神父と会談していましたら、話題がドイツの教会の現状になった時、浜田神父は一度ぜひ日曜日にある村の教会にミサに来てほしいと依頼され、迎えの車に乗せられて行った普通の大きさの村の教会でミサに参加したのは、車で迎えに来た一家族と他に一人の老人だけだったそうです。数十年前まで大勢の村人で賑わっていたドイツや他のキリスト教国の教会は、最近ではこのようにして寂れて来ているようです。近年の日本の田舎と同様に、若者たちの多くが都会に出て行って子供の数も少なくなり、若さと活気を失って来たのでしょうか。

⑤ 各人のこの世の生活の豊かさや便利さだけを称揚して追求させる巨大な理知的現代文明の潮流は、全ての人の心に蒔かれているキリスト教信仰の遺伝子を抑えて、人間中心の新しい自主的遺伝子の数を激増させ、神が求めておられるような実を結べないようにしつつあるようにも見えます。今流行の遺伝子組み換え技術は、害虫や悪環境に強い動植物を造り出して農民や漁民の収益を画期的に拡大したり、ガソリンに代わる燃料を大量に産出して国益を増大させたりするのに利用されていますが、現代の宗教の分野でも、自分たちの影響力拡張のため、一部では一種の遺伝子組み換えが人間主導で試みられているように思われます。そのようにして神が本来望んでおられた、神に似せて創られた人間の生き方が人間主導で歪められると、いつの日か恐ろしい天罰を招くことになりはしないかと怖れますが、いかがなものでしょう。

⑥ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなた方の為すべき礼拝です。あなた方は、この世に倣ってはなりません」と勧めています。ここで「体」とあるのは、肉体だけではなく、精神も含めた人間全体を指していると思います。こうして自分をいけにえとして神に献げ、神の御旨に徹底的に従う聖なる存在に高めますと、そこに神の霊が働き始めて、「何が神の御旨であるか、何が善いことで神に喜ばれるか」を弁え知るようにして下さいます。これが、主キリストが身をもってお示しになった生き方ではないでしょうか。

⑦ 本日の福音の後半にも、「神のことを思わず、人間の事を思っている」とペトロを公然と叱責なされた主イエスは、「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。云々」と勧めておられます。私たちはこの世での限られた経験や学習から、どこにでも通用する普遍的真理や原理を学び取ろうとする、「理性」という能力を神から戴いています。それは、神の存在や働きまでも推測できる程の真に優れた能力ではありますが、しかし経験や学習の不備不完全から、原罪によって暗く複雑な世界にされているこの世では誤りに陥ることも多く、特にあの世の真理やあの世からの招き・導きなどについては感知するセンスに欠けています。でも神はもう一つ、私たちの心の奥底にあの世の神に対する憧れと愛という、もっと優れた知性的な信仰の能力を植え付けて下さいました。

⑧ これは、私たちの心がこの世に生を受けた時から本能的に持っている能力で、親兄弟や友人・隣人を介して神から与えられる愛のこもった保護・導き・訓練などを素直に受け止め、それに従おうとしていると、神の恵みによって目覚め、芽を出し、逞しく成長し始める生き物のような能力です。ここで言う「信仰」は、聖書にpistis(信頼)と表現されている、神の導き・働きへの信頼とお任せと従順の心で、自分で自主的に真偽・正邪を決定したり行動したりする、人間主導の能力ではありません。ですから主は、福音の中でそういう人間主導の「自分」というものを捨てて、従って来るよう強調しておられるのです。各人の心の奥底に植え込まれている神へのこのpistis(信頼・信仰)が大きく成長しますと、そこに神の愛・神の霊が働いて多くのことを悟らせて下さるだけではなく、また豊かな実を結ばせて下さいます。主がぺトロを「サタン、引き下がれ」と厳しく叱責なされたのは、この世の人間主導の生き方に死んで、神の御旨中心の生き方へと目覚めさせ、強く引き入れるためであったと思われます。

⑨ 使徒パウロはコリント前書1章に、「神は(この世の)知恵ある者」「力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました」と書いていますが、人間的外的にしどれ程無学無力であっても構いません。この世の知恵や人間中心の生き方を捨てて、愛する牧者の声に素直に聞き従う羊たちのように生きようとするなら、使徒パウロが記しているように、主キリストがその人たちの知恵となり、神の祝福を天から豊かに呼び下すのではないでしょうか。私たちも自分の命を神へのいけにえとして献げつつ、主に従い続ける恵みを願って、本日のミサ聖祭を献げましょう。