2011年9月4日日曜日

説教集A年:2008年9月7日年間第23主日(三ケ日で)

第1朗読 エゼキエル書 33章7~9節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 13章8~10節
福音朗読 マタイによる福音書 18章15~20節
 
① 本日の三つの朗読聖書は、神から与えられた掟や警告などの順守の仕方について教えていると思います。神は人間をそれぞれ個人として生活するようにお創りになったのではありません。創世記には、人間を男と女にお創りになった神は、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」とお命じになりました。聖書によりますと、これが私たち人間に与えられた神からの最初の命令であります。人間各人は、個人として神の御前に進み出るのではなく、共同体の一員となり隣人たちと仲良く手をつないで神の許に来るように、と神から望まれ求められていると思います。

② 本日の第一朗読は、紀元前6世紀のバビロン捕囚時代に、その捕囚の地で活動した預言者エゼキエルに与えられた神の言葉ですが、それによると、預言者は神から与えられた警告の言葉を、そのまま相手に語り伝えるだけであってはなりません。例えば「悪人よ、お前は必ず死なねばならない」という神よりの警告を相手に伝えるだけではなく、預言者自身もその人に警告し、その人が悪の道から離れるように説得しないならば、神からその責任を問われることになる、というのです。自分一人だけで神の掟を忠実に守り、神に喜ばれる人間になろうとしてはならないという、こういう神のお言葉を読みますと、私は神学生時代に当時のドイツ人宣教師から「必ず少なくとも一人か二人に自分の受けた信仰の恵みを伝え、手をつないで天国に行こうとしなければ、天国の門前でその怠りを咎められるでしょう」と言われていたことを、懐かしく思い出します。

③ 後年、京都の知恩院で研修を受けた時、1970年代、80年代の浄土宗には、教祖法然の教えに従って「お手つぎ運動」というのがあることを知りましたが、私たち人間が互いに助け合い補い合って愛の共同体を造ること、そしてそういう共同体となって生活し、天国へと進んでくること、それが神の創造の初めから望んでおられる理想的人間像だと思います。現代は個人主義が盛んですが、自分一人で救われようとする考えを放棄して、一人でも多くの人と、特に今苦しんでいる人たちと内的に手を繋ぐ連帯精神を大切にし、そういう隣人たちのために日々自分の祈りや苦しみ、あるいは小さな不便や節約などを喜んで献げつつ生活するよう心がけましょう。すると不思議に神の導きや助けを体験し、実感するようになります。

④ 本日の第二朗読も、この立場で理解するように致しましょう。使徒パウロの考えでは、神から与えられた律法やその他の掟は、全て「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。ここで言われている「隣人」は、現実にはいろいろと数多くの罪科や欠点を抱えていて、自分とは考えも好みも大きく異なる、真に付き合い難い人間であるかも知れません。しかし、そういう隣人の中にこそ神が隠れて現存し、そっと私たちに眼を向けておられのです。その人の行いや言葉を自分の好みや理知的な考えで批判したり退けたりする前に、まず神が私から求めておられると思われる自己放棄や苦しみを喜んでお献げ致しましょう。それからその隣人が神信仰に成長して仕合わせになるために必要と思われることを、進んで提供するするに努めましょう。それが、神の求めておられる「隣人を自分のように愛する」ことだと思います。

⑤ 本日の福音の前半には、こういう兄弟愛の生き方に背く罪の中に留まり、自分中心に利己的に生きようとしている信者に対する対処の仕方を教えた主の御言葉だと思います。時代の大きな過渡期には個人主義が盛んになって、信仰の恵みに浴しても、自分中心に生き続ける人は少なくないと思われます。人間の弱さから教会共同体の内部や修道院共同体の内部にまで侵入して来るそういう悲しい現実には、主の御言葉に従って適切に対処するよう心がけましょう。

⑥ 本日の福音の後半に読まれる、「二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいる」という主の御言葉は、私たちの心に大きな慰めを与えます。復活なされた主イエスは、その復活の日の午後にエマオへ行く弟子たち出現なされた時と同様に、今も世の終わりまでその復活体で生きておられ、目には見えないながらも私たちの集まりの中に現存しておられるのです。この事を堅く信じましょう。するとその信仰のある所に、不思議に主が働いて下さいます。私たちが少人数でささげるこのミサ聖祭の中にも、主は実際に現存しておられます。そして主は今も、私たちが「心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれを叶えて下さる」と確約しておられるのではないでしょうか。本日の福音に読まれる主のこのお言葉に信頼しつつ、私たちの願いを捧げましょう。

⑦ 第二バチカン公会議後に刷新された典礼では、全ての日曜日は主の復活を記念し崇め尊ぶ日とされています。それは、2千年前の出来事を単に記念するという意味ではないと思います。2千年前にもはや死ぬことのないあの世の命に復活なされ、度々弟子たちに出現なされた主イエスは、今もその同じ復活体で生きておられ、目には見えないながらも世の終わりまで私たちに伴い、神出鬼没に私たちの間に現存しておられるのです。毎日曜日、その主の隠れた現存に対する信仰を新たにしながらミサ聖祭を献げるようにというのが、教会のお考えだと思います。ミサの中ほど聖変化の後に、司祭が「信仰の神秘」と呼びかける時、古代のギリシャ教父たちは特に主の現存に心を呼び覚ますようにしていたと聞いています。信徒はその言葉に「主の死を思い、復活を讃えよう。主が来られるまで」などと答えますが、これが口先だけの習慣化した祈りにならないよう気をつけましょう。主は死んだことによってこの世の目には見えなくなりましたが、その復活なされた命で世の終わりまで私たちと共におられることを堅く信じるという心を込めて、唱えましょう。