2011年9月18日日曜日

説教集A年:2008年9月21日年間第25主日(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 55章6~9節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 1章20c~24、27a節
福音朗読 マタイによる福音書 20章1~16節

① 本日の三つの朗読聖書には、私たち人間のこの世的考えと神のお考えとの大きな違いが示されていると思います。集会祈願文にも、「いつも近くにおられる神よ、あなたの思いは全てを越えて全てに及び、慈しみの深さははかり知れません」とあります。第一朗読は、神の民が犯した罪のためバビロンで捕囚状態にあり、希望を失って熱心に祈ろうともしないイスラエル人たちに、預言者第二イザヤが「主に立ち帰るなら、主は憐れんで下さる」「豊かに赦して下さる」と呼びかけている話ですが、その中に読まれる、「私の道はあなたたちの道と異なる」「私の思いはあなたたちの思いを高く越えている」「天が地を高く越えているように」という、神の御言葉に注目しましょう。
② 私たち人間は、罪によって汚され、煩雑に乱れているこの世の人間社会で日々体験することを基準にして、自分の人生や社会などを考えますが、それは全宇宙を創造し、大きな愛をもって統括しておられる神のお考えとは、雲泥の差があると思われます。信仰生活・精神生活においては、人間たちがその日常体験に基づいて作りあげた「常識」という尺度にも気をつけましょう。私たちが自分の人生の中心・導き手として崇めている神のお考えは、しばしばこの世の人間たちの考えとは大きく異なっているからです。
③ 私がローマに留学していた1960年、すなわち第二バチカン公会議の直前頃に、ローマのグレゴリアナ大学布教学部の某教授はその講義の中で、現代の私たちは「諸宗教」という言葉を頻繁に耳にするようになったが、神のお考えでは「宗教」は一つしかなく、自分もその立場で考えている、というような話をしたそうです。そのことを私の同期で布教学を学んでいたブラジル人神父から聞いた時、私は心に深く共鳴するものを覚えました。その時以来私は、「諸宗教」という言葉を使っても、心では、全ての宗教は神の御前で皆一つの宗教であり、いずれ皆そうなるよう神から求められているのだ、と考えるようになりました。
④ その後キリスト教諸派の代表者たちやマスコミ関係者たちをオブザーバーとして招き、明るい開放的な雰囲気の中で開催された公会議の直後、その公会議でも活躍したドイツ人神学者カール・ラーナーが、家庭や社会のため真面目な奉仕的精神で生きている異教徒や未信仰者たちを、「無名のキリスト者」として考える新説を唱道した時、私はこれも神のお考えであろうと思うようになり、たまたま1966年の夏に、私の生活していた神言会のネミ修道院で一流神学者たちの会議が一週間開催された機会に、カール・ラーナーと個人的に半時間会談する機会にも恵まれました。これは、神からの特別のお恵みであったと感謝しています。神は実際、温かい大らかな御心で人類各人の善意や弱さなどを見守り、それに伴っておられる方だと信じます。
⑤ しかし、その2年ほど後から、「無名のキリスト者」の思想を理知的に冷たく受け止め、現代にはもうキリスト教を宣教する必要はないなどという過激な思想がカトリック教会の一部で囁かれ始めた時、これは神のお考えでもラーナーの考えでもないと、私は強く反対しました。第二バチカン公会議も、「教会憲章」や「教会の宣教活動に関する教令」の中などで、カトリックの福音宣教の必要性を強調していますから。大切なことは、この世の人間理性が産み出す理知的な考えや尺度ではなく、何よりも神のお考えに従おうとする従順の精神だと思います。聖書も神学も、その他各種の新しい出来事も、全てこの精神で受け止め、神の御働きへの従順の立場から吟味し判断するように心がけましょう。
⑥ 本日の第二朗読は、ローマで囚われの身である使徒パウロがフィリッピの信徒団に宛てた書簡の一節ですが、その中に多少意味不明に見える言葉が読まれます。「私にとって生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」という邦訳文です。私はこの箇所を原文に従って「生きるのはキリストであり、死ぬのは儲けです」と少しだけ訳し変え、私の内に生きて下さるのはキリストであり、死んでこの世の危険や労苦から解放されるのは、キリストと共にいたいと熱望している私にとっては大きな儲けなのです、と解釈しています。しかしパウロには、自由を奪われ監禁されながらでも、今しばらくこの世に留まってキリストの命に生かされつつ働くのが信徒たちには必要であろうという思いもあり、これら二つの考えの間で心は板挟みの状態になっているというのが、この時の使徒パウロの心境なのではないかと考えています。
⑦ 本日の福音は天国を、ぶどう園の労務者たちに賃金を支払う慈悲深い主人に譬えた主イエスの話ですが、この世の人間社会の合理的報酬観の立場でこの譬え話を読むなら、天国は不公平の支配している所という、間違った印象を与え兼ねません。一日中暑さを我慢して働いた労務者も、夕方にほんの一時間しか働かなかった労務者も、等しく1デナリオンの報酬を受けるのですから。多く働いた人たちが不満になって呟いたのも、当然と思われて来ます。しかし、人間のこの世的常識や合理的原則を最高の基準とせずに、神のあの世的博愛の配慮に従おうとする立場でこの譬え話に学ぼうとしますと、雇用先が見つからずにいる貧者たちに対する、ぶどう園の主人の温かい思いやりと奉仕の愛が注目を引きます。困っている弱い人や貧しい人たちに対する、損得無視の奉仕愛に生きておられる神の統治しておられる天国に入れて戴くには、同様の自己犠牲的奉仕愛を実践的に身につける必要があるのではないでしょうか。大きなことはできない私たちですが、せめて日々自分にできる小さな実践で無料奉仕する愛を少しずつ身につけ、磨くことに心がけましょう。そのための照らしと助けを神に願い求めて、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。