2011年7月10日日曜日

説教集A年:2008年7月13日年間第15主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 55章10~11節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章18~23節
福音朗読 マタイによる福音書 13章1~23節
 
① 本日の第一朗読は、バビロン捕囚時代の神の民に預言者を介して神による祝福と捕囚からの解放とを告げた神のお言葉ですが、私たち人間の言葉とは違って、神の口から出るお言葉には、この世の事物や生命を生かす力と使命が込められていると明言されています。このことは、神よりの全ての言葉について言われている、と受け止めてよいと思います。

② 特に人となってこの世にお生まれになった神のロゴス、そして死後もあの世の命に復活して世の終わりまで私たちと共にいて下さる神のロゴスは、私たち被造物を生かす力と使命を持つ、そのような神の御言葉だと思います。その御言葉は、私たちが日々献げているミサ聖祭の中ではパンの形で現存して下さいます。神の力、神の言葉自体はこの世の体の目には見えませんが、しかし、神からの生きている力、ロゴスがここに私たちの中で働く使命を持って現存していることを信じましょう。そして感謝と従順の心でその御言葉を拝領しましょう。私たちがこの信仰に留まっているなら、神の御言葉は必ず働いて下さいます。今はただ信仰・希望・従順の時ですから、今その働きを見ることはできませんが、ずーっと後になって自分の人生体験を振り返る時、私たちは神の御言葉が実際に働いて下さったことを確信することでしょう。

③ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「被造物は、神の子らの現れるのを切に待ち望んでいます」と説いていますが、ここで言われている「神の子ら」は、信仰と愛の内に神の子メシアの命に参与している私たち人間を指しています。外的自然的には私たちは皆小さな弱い存在です。数々の罪科や欠点に覆われ、汚れている粘土のような存在かも知れません。しかし、神から受けた信仰の眼をもって、この汚れた粘土のような存在を振り返る時、そこには恐ろしい程大きな生命力を備えた神のロゴス・神の御言葉が根を下ろしています。この真実を見逃さないように致しましょう。私たちが肉の心で生きることなく、神の霊の心で生きるよう心掛けるなら、神の子メシアの命が私たちの中で、私たちを通して無数の被造物の救いのために働いて下さいます。多くの被造物、信仰を知らない人々は虚無に隷属させられて苦しみ、うめいていますが、メシアの救う力が神の子らを介して世に現れ出るのを、切に待ち焦がれているのではないでしょうか。メシアの命の根を宿している私たちは、外的人間的にはどれ程小さく無力でも、その救う力の生きている道具だと思います。この世の小さな自分の生活の事よりも、もっと自分の存在の中での神の御言葉に心の眼を向け、祈りと愛と従順の実践により、その御言葉が多くの被造物のため働き出すのに協力しましょう。

④ 本日の福音は、主イエスがお語りになった「種蒔く人」の譬話ですが、主が弟子たちの質問に答えて解説なさった話から察しますと、蒔かれた種はあの世の神の救う力を宿した神の御言葉のようです。その御言葉はこの世的な実を結ぶものではないので、この世の社会やこの世の成功にだけ心を向けている人は、聞いても心で理解できず、悔い改めようともしません。主が「道端に蒔かれたものとは、こういう人である」「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人である」などと、蒔かれた種とその人とを一緒にして話しておられるのは、注目に値します。私たちの奥底の心は、神の御言葉の種を宿す単なる土壌ではなく、あの世的な命の種を宿すことにより、その種と一つになってあの世的存在へと次第に変革される生き物なのではないでしょうか。神の働きに従おうとする精神に欠けている下心の土壌では、折角蒔かれた恵みの種も根を下ろすことができずに枯れてしまいます。またこの世の思い煩いや富にあまりにも囚われている下心の土壌では、恵みの種は実を結ぶことができません。しかし、神の霊の働きに忠実に従おうと祈っている奥底の心の中では、神の種はその忠実さの度合に応じて豊かな実を結び、その心自体もますます神の子に似た者に変革され、あの世的存在に高められて行くのではないでしょうか。私たちも皆、そうなりたいものです。そのための照らしと恵みを祈り求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。