2011年7月3日日曜日

説教集A年:2008年7月6日年間第14主日(三ケ日)

第1朗読 ゼカリヤ書 9章9~10節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章9、11~13節
福音朗読 マタイによる福音書 11章25~30節
 
① 本日の第一朗読の出典であるゼカリヤの預言書は14章から成っていて、前半の1章から8章には、ゼカリヤの見た八つの神秘的幻に続いて、「万軍の主はこう言われる」という言葉が10回も繰り返され、神の恵みにより世界の諸国民の憧れの的となるエルサレムの将来について、予告されています。そして9章以降の後半には、主が来臨なされた後の諸国民や悪い羊飼いたちへの裁き、並びにエルサレムの救いと浄化などについての預言が読まれます。

② 本日の第一朗読は、その第9章の中ほどにある、主のエルサム入城についての預言であります。旧約末期の黙示文学的色彩を濃厚に留めている預言書であることや、ヨブ記の1章と2章に数回登場するサタンという悪霊の名前を、3回も登場させている唯一の預言書であることから察しますと、ゼカリヤは、あの世の霊界の動向に対する鋭い感覚の持ち主であったかも知れません。その悪霊サタンは、高度に発達した明るい現代文明の社会の陰でも暗躍し、真面目に働く人たちを次々と不幸のどん底に陥れていることでしょう。私たちも信仰と祈りによって内的にしっかりと神に結ばれ、警戒していましょう。サタンは、私たち人間の力を遥かに凌ぐ恐ろしい力の持ち主なのですから。

③ 本日の第二朗読であるローマ書8章には、霊と肉、霊の法則と肉の法則とが敵対関係にあることが詳述されていますが、その8章の始めには、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがありません。キリスト・イエスによって命を齎す霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです」という言葉が読まれます。本日の朗読箇所も、この解放された者の立場で理解するように致しましょう。しかし、そこに述べられている「肉に従って生きる」という言葉を、私は非常に広い意味で理解しています。例えば、戦争中の節約時代の教育を受けて育った私は、7年間のヨーロッパ留学から帰国して、40年ほど前の高度成長期の日本人の豊かな生活ぶりを目撃した時、水にしろ電気にしろこんなに浪費するのは神に清貧を誓った私の生き方ではない。他の人たちはどう生きようと、私は神に心の眼を向けながら節水・節電に心がけようと、清貧の決心を新たにしました。

④ その数年後、私が一人の少し若い神言会員に節電の呼びかけをしたところ、その会員から、「この蛍光灯をつけっぱなしにしても、電気の料金はほとんど違いませんよ」と反対されました。実際に料金、すなわちこの世の金銭を基準にして考えるなら、「贅沢は美徳、経済を発展させるから」などと言われていたあの豊かな時代には、節水も節電も人の心に訴える力に欠けていました。それで、時代遅れの人間と思われた私は、その後はもう節水も節電もほとんど口にしなくなりました。しかし、ここ三十数年間、私は惜しげもなく水も電気もその他の資源も使い果たしていた人たちが、病気には勝てずに次々と薬漬けにされ、病床で長い間様々の節制を強要されて死んで行くのを見るにつけ、過ぎ行くこの世の資金や事物を価値評価の基準にして生活するのは「肉に従って生きる」ことではないのか、と思うようになりました。

⑤ この大自然界の全てのものは、神の所有物です。神に感謝と愛の心を向けながら、神の御心を基準にしてそれらを大切に利用し生活するのが、使徒パウロのいう「命を齎す霊の法則」に従って生きることなのではないでしょうか。鷹揚な神が有り余るほど豊かに自然の富を与えて下さっている間は、自分で基準を決めてケチる必要はありません。私たちも、感謝の内に鷹揚に利用させて頂きましょう。しかし、過度の無駄遣いは避けるように心がけましょう。それが、神の霊に従って生きる生き方であり、あの世の神からのご保護と祝福を、この世の人生に豊かにもたらす生き方であると信じます。

⑥ 本日の福音の中で主イエスは、「天地の主なる父よ、あなたを褒め称えます」という言葉で、この世の知恵ある者や賢い者たちに隠されており、幼子のような者たちに示されている、「霊に従う」生き方の秘訣について話しておられます。幼子は、この世の知者や賢者たちのように、人間社会を基準にして善悪・損得を評価しません。何よりも自分を愛し守り支えてくれている方にしっかりと捉まり、その方のお考えや導きに従っていようとします。神も、愛と信仰のうちにひたすらご自身に従って生きようとしている幼子のような弱者たちに、真の知恵と必要な力とを次々と与えて下さるお方だと思います。主はその話の後半に、「疲れた者、重荷を負う者は誰でも私の下に来なさい」と招き、「私のくびきを負い、私に学びなさい」と勧めています。くびきは牛などの家畜を二頭並べて繋ぐ木の道具で、ここでは内的に主イエスと並んで、自分に課せられている生活の重荷を一緒に担うことを意味していると思います。私たちが日々ご聖体を拝領するのは、主と内的に一致してその生き方をするためなのではないでしょうか。主と並んで同じくびきを担うとは、この世の肉的価値観を放棄し、何よりも神の御旨・神の愛に心の眼を向けながら、自分に与えられている全てのものを大切に利用しつつ、生きることを意味していると思います。それが、私たちの心に本当の安らぎを与えてくれる生き方だと信じます。私たちが主と共にこの新しい生き方に徹して忠実に生きることができるよう神の助けを願って、本日のミサ聖祭を献げましょう。