2011年6月26日日曜日

説教集A年:2008年5月25日キリストの聖体(三ケ日)

第1朗読 申命記 8章2~3、14b~16b節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 10章16~17節
福音朗読 ヨハネによる福音書 6章51~58節
 
① 本日の第一朗読は、これから神から約束された地に入ろうとしているイスラエルの民に、モーセが語った話のようですが、モーセは、これ迄の40年間彼らが主に導かれて過ごした荒れ野での体験、神から受けた信仰教育を忘れずに、これからの信仰生活のためにそこから一番大切なことをしっかりと学びとることを勧めているのだと思います。この朗読箇所には省かれていますが、この話の途中14節のbにある「心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしない」という言葉が、この話全体の核心部分と言ってよいと思います。

② 荒れ野での40年間に及ぶ神からの数々の実践的信仰教育からモーセが学んだことは、イスラエルの民に自己中的に心のおごりたかぶりを徹底的に捨てさせ、神がお与え下さるもの全てを幼子のように謙虚に受け止めて、何よりも神から与えられるものによって生かされよう、と努めさせることだったのではないでしょうか。神は民に飢え渇きの恐ろしい苦しみを体験させた後に、先祖も味わったことのないマナを食べさせたり、硬い岩からの豊かな水を飲ませたりする大きな奇跡を体験させて下さいましたが、全能の神によるこのような救いの御業に、幼子のように、また僕・はしためのように、我なしの精神で素直に徹底的に従って行くようにというのが、モーセが民の心に促している生き方であったと思います。

③ 心のおごりたかぶりの基盤は、この世の事物現象を正しく理解し利用するために神から与えられている理知的な理性を、あの世の神に対する信仰の次元にまで持ち込み、人間中心・この世中心に全てを判断し決めようとする利己的精神にあります。この精神は神よりの恵みを正しく識別するのを妨げ、神の怒りを招いて民に大きな不幸を招くことになる、とモーセはこれまでの数多くの体験から心配していたのではないでしょうか。子供の時からパソコンに慣れ、親をも社会をも全てを自分中心に利用しようとする自由主義精神に汚染され勝ちな現代人にとっても、これは忌々(ゆゆ)しい問題だと思います。

④ 本日の第二朗読には「キリストの血にあずかること」、「キリストの体にあずかること」という言葉が読まれます。こういう言葉に接すると、私は(これまでにも度々話して来たことですが)「各人はそれぞれキリストの体の細胞である」という考えを想起します。近年の研究によりますと、人体に60億もあると聞く細胞の各々にはヒトゲノムという各人独自の遺伝子、すなわちその人の基本的設計図が神から組み込まれていて、細胞はそれぞれ情報の授受機能や細胞の増殖機能などを備えて独自に生きています。全体を見渡す目は持っていませんが、より大きな命にバランスよく幸せに生きることはできます。しかし、より大きな生命から離脱すると死んで、灰に帰してしまいます。キリストの体に組み入れられている私たち各人も、その細胞のような存在なのではないでしょうか。キリストの体に結ばれている個々の細胞に必要な養分を届けたり、細胞から老廃物を取り除いたりする血液の働きをしているのが、主キリストからも発出されている神の聖霊と考えてよいと思います。聖霊は、主キリストがお定めになったご聖体の秘跡の中にも豊かに現存し、働いておられます。

⑤ 本日の福音は、主イエスが大麦のパン五つと魚二匹を分け与えて五千人以上の人たちを満腹させるという、大きな奇跡をなさった後に、その主をたずね求め、次の日にカファルナウムで見出したユダヤ人たちに話されたお言葉であります。彼らは皆アブラハムの神を信じていましたし、前日目撃した大きな奇跡故に、主がその神からの人であると考えていたと思います。主はそのユダヤ人たちの人間中心・この世中心の常識を根底から覆し、退けるような話を敢えて堂々と繰り返し、彼らから我なしの徹底的信仰と従順をお求めになります。「私は天から降って来たパンである。このパンを食べる人は、永遠に生きる。私の与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。」「私の肉を食べ、私の血を飲む人は永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。云々」というような話であります。彼らユダヤ人たちだけではなく、パンの奇跡に続いて主が夜に海を歩いて渡られる奇跡を目撃し、その場にいた使徒たちもこのような話に驚き、どう理解したらよいものかと戸惑ったことでしょう。

⑥ 主は現代の私たちからも、パンの形での復活の主のあの世的現存と働きに対する、我なしの徹底的信仰と従順とを強く求めておられると思います。近代的自我中心の精神を捨てずに、ただ頭の中で主の現存を考え受け入れているだけの、外的信仰では足りません。そこには主に対する信仰と従順のお求めを謙虚に受け止め、それを目にも態度にも表明しながら、主に従って主と共に生きようとする、我なしの信仰心の熱意が欠けているからです。主は大きな愛をもって私たちにも呼びかけ、ご聖体の主に対する愛熱の籠った信仰を求めておられるのです。口先だけの冷たい外的信仰では主をお悲しめするだけ、いつまでも主をお待たせするだけなのではないでしょうか。そういう生き方に、今こそ終止符を打って新しく立ち上がることを、主は私たちから求めておられると思います。

⑦ 今年8月の北京オリンピックに向けて、世界各国の選手は今その調整に励んでいることでしょうが、選手にとって一番大切なことは心の調整だと思います。72年前の1936年の8月、日本女性初の金メダルを獲得した前畑秀子さんは、その著書『勇気、涙、そして愛』によると、女子二百米平泳ぎの決勝当日に、「負けたら生きて帰れない」などのすさまじい雑念に苦しめられたそうです。しかし、スタート台に上がると雑念は消え、「悔いのないレースをしよう」という静かな心境になったのだそうです。そして水の中に飛び込んでからは、大歓声の中を一人で全力で泳いでいる感じになり、遂にわずか0.6秒という僅差で優勝したのだそうです。「自分がもし称えられるとしたら、ライバルに競り勝ったからではなく、自分に勝ったからでしょう」と書いていますが、この言葉に私たちも学びましょう。この世の他の人たちには目もくれず、自己中心・この世中心になり勝ちな自分に打ち勝って、主の御眼中心に静かに生きようとする時、ご聖体の主が私たちの心の中にのびのびと働いて下さって、世のため社会のためにも良い成果をあげて下さるのではないでしょうか。

⑧ 本日の集会祈願文には、「主のお体を受け救いの力にあずかる私たちが、主の死を告げ知らせることができますように」とありますが、これは単に口先で主キリストの死を人々に告げることではありません。主と一致して自分中心・この世中心の生き方に死ぬことを、実践的に証しすることを意味していると思います。ご聖体の秘跡に養われつつ、そのような生き方をなすことができますよう、本日のミサ聖祭の中で主の恵みを願い求めましょう。