2011年6月5日日曜日

説教集A年:2008年5月4日主の昇天(三ケ日)

第1朗読 使徒言行録 1章1~11節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 1章17~23節
福音朗読 マタイによる福音書 28章16~20節


① 主の御昇天の日を偲ばせるにふさわしい好天に恵まれましたことを感謝したいと思います。本日の集会祈願には、「主の昇天に、私たちの未来の姿が示されています」という言葉がありますが、私たちの本当の人生はあの世の栄光の内にあると思います。神は私たち人間を、ほんの百年間ばかりこの不安と苦しみの世に住まわせるためにお創りになったのではなく、神と共に永遠に幸せに生きるため、愛をもって万物を支配させるために、ご自身に「似せてお創り」になったのです。明るい希望のうちにこの感謝の祭儀を捧げましょう。

② 第一朗読によりますと、復活なされた主イエスは40日にわたって度々弟子たちに出現なされたが、その最後頃の話でしょうか、彼らと一緒に食事をなさった時に、エルサレムを離れずに、主が前に話された、父から約束されたもの、すなわち聖霊の降臨を待つようにと、お命じになったとあります。「あなた方は間もなく聖霊による洗礼を授けられるから」というお言葉から察しますと、主は復活なされた日の晩に弟子たちにお現れになった時にも、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。云々」と彼らに聖霊をお与えになりましたが、それとは違う仕方で、すなわち彼らの存在を内面から高めるような、新しい画期的な形で聖霊をお与えになることを予告なされたのだと思われます。

③ 「洗礼」という言葉は、「沈める、浸す」という意味の動詞に由来していますから、「聖霊による洗礼」という主のお言葉は、弟子たちが聖霊の水・聖霊の力の中に沈められ覆われて、新しい「我」となって生き始めることを意味していると思います。「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして(中略) 地の果てに至るまで、私の証人となる」という主の御言葉も、この意味で理解しましょう。眼下にエルサレムの町を見下ろすオリーブ山の頂でこう話された主は、彼らの見ている前で、恐らく明るく光り輝きながら天にあげられ、雲に覆われて見えなくなりました。そして白い服を着た二人の天使が彼らの傍に立ち、「なぜ天を見上げて立っているのか。….. 天にあげられたイエスは、同じ有様でまたお出でになる」と告げました。天使たちのこの言葉を聞いて、使徒たちは慰めを覚えたと思います。復活なされた主は、神の御許で彼らのために執り成して下さるだけではなく、またいつか今見たのと同じお姿でこの世にお出で下さるというのですから。この時の彼らは、主のその再臨をそう遠くない将来のことと考えていたと思います。それでエルサレムの町に戻ると、宿泊していた家の高間に上がって、聖母マリアや婦人たちと共に心を合わせてひたすら神に祈り、聖霊による洗礼を待ち望んでいました。察するに、そこは主が弟子たちと一緒に最後の晩餐をなさった所でしょう。

④ 本日の第二朗読では、使徒パウロがエフェソの信徒団のため、天の御父が知恵と啓示の霊を与えて、神を深く知ることができるように、彼らの心の眼を開いて下さるように、と祈っています。パウロはこの言葉を、自分の過去の苦い体験を思い出しながら書いたのではないでしょうか。彼は若い時には有名なラビ・ガマリエルの弟子で、人並み優れた熱心な律法学者でした。神の啓示、旧約聖書のことは日々熱心に研究していたと思います。しかし、人間理性を中心にしたその聖書研究の結果、神秘な神の御旨と導きに従うことを第一にしていたキリストの教会を誤解し、迫害してしまいました。復活の主イエスによって大地に投げ倒され、心の眼を開いて戴いてからは、誤り易い自分の人間理性に従うよりは、何よりも神の聖霊の照らしと導きに従うことを第一にし、いわば主イエスの奴隷となって、教会に奉仕していたのだと思います。

⑤ パウロはこうして神の知恵と啓示の霊に導かれ教えられている内に、頭の理性とは違う、心の奥底に与えられている霊的な悟る能力が次第に大きく目覚めて見えるようになり、信仰に生き抜く聖なる者たちが将来主イエスから受け継ぐものが、どれ程豊かな栄光に輝いているかを、また私たち信仰に生きる者たちのために働いて下さる神の力が、どれ程大きなものであるかを悟るに至ったのだと思います。天にお昇りになった主イエスは、実に神からこの世とあの世との全ての勢力・権威・主権の上に立てられ、全てのものをその足元に従わせるに至る最高の支配者となり、私たちの属しているキリストの教会は、その栄光のキリストの体、全能の愛の神がお働きになる場とされているというのが、人間主導の生き方を改め、神の霊に導かれて祈りつつ考え実践するようになった使徒パウロが、確信するに至った考えだと思います。私たちもその模範に倣い、人間理性主導の理知的思想や文化を中心にして昇天なされた主のお姿を連想したり説明したりすることなく、まずは主の僕・はしためとなって人間主導の生き方に死に、祈りつつ自分に示された神のお望みに黙々と従う実践に励みましょう。その時、神の霊が私たちの心の奥底にも次第に生き生きと働き始め、信仰の真理を一層深く悟らせ確信させて下さることでしょう。

⑥ 本日の福音は、復活の主がガリラヤの山で弟子たちに話されたお言葉を伝えています。「私は天と地の一切の権能を授かっている」というお言葉は、使徒パウロが霊に導かれて確信したことの真実を立証していると思います。その主がご昇天なされ、あの世の霊的存在になられた後にも、世の終わりまで内的にはいつも私たちと共にいて下さるのです。主の霊的現存と聖霊によるお導きとを堅く信じつつ、主がお命じになった愛のおきてを守ることに努めましょう。

⑦ 主は「行って、全ての民を私の弟子にしなさい」と弟子たちにお命じになりました。「教えなさい」とおっしゃったのではありません。無学なガリラヤの漁夫たちには、当時のギリシャ・ローマ文化や東洋文化の伝統に生かされている国々の民に教えることは、どれ程努力してもできません。しかし、それらの国々の民が時代の大きな過渡期に直面して、それぞれ心の底に深い悩みや憧れなどを抱いていたことを考え合わせますと、信仰に生きる無学な使徒たちでも、自分の信仰体験からその人たちの心に語りかけ、諸国の民を主イエスの弟子にすることはできると思います。宗教的師弟関係は心の意志の関係であって、頭の理解の問題ではありませんから。このことは、現代のグローバル世界においても同様だと思います。主がお命じになった宣教とは、「私の弟子にしなさい」という主のお言葉に従い、信仰をもって主イエスに従う人たちの数を増やす活動であることを、私たちも心に銘記していましょう。