2011年6月12日日曜日

説教集A年:2008年5月4日聖霊降臨の主日(三ケ日)

第1朗読 使徒言行録 2章1~11節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 12章3b~7、12~13節
福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~23節

① 本日の福音に述べられていますように、復活なされた主は既にその復活当日の晩、弟子たちに息吹きかけて聖霊を与えておられます。そして聖霊を与えることと、弟子たちの派遣とを一つに結んで話しておられます。聖霊の霊的な力を魂に受けることは、神から一つの新しい使命を受けることを意味しているからでしょう。私たちが洗礼や堅信などの秘跡を通して神から頂戴した聖霊の恵みも、自分一人の救いのためとは思わずに、自分の周囲の人たちや全人類の救いのために、積極的にその恵みに生かされ導かれて祈りと奉仕に努める使命を神から頂戴したのだ、と考えましょう。

② 「生かされ導かれて」と申しましたのは、その恵みは人間が主導権をとって自分の思いのままに自由に利用する資金や能力のようなものではなく、生きておられるペルソナであられる聖霊が主導権をとって、私たち各人の内にお働きになる恵みだからです。私たち各人はその僕・はしためとなって、謙虚にまた従順に奉仕するよう求められていると思います。そのため各人は心の奥底に神から与えられている、あの世の霊の導きに対する心のセンスを目覚めさせ、磨く必要があります。それは、この世の事物現象を正しく理解するために与えられている頭の理知的能力とは違って、直観的に察知し洞察する芸術的な能力であり、主イエスや聖母マリアがその模範を示されたように、神の御旨に対する神の僕・はしためとしての従順の精神と深く結ばれています。

③ ところで主は、主の昇天のミサの第一朗読である使徒言行録1章に読まれるように、昇天なされる直前に弟子たちに向かって「エルサレムを離れずに、父の約束なさったものを待ちなさい。…. あなた方は間もなく聖霊による洗礼を授けられるから」とお命じになりました。それは、ご復活の日の晩に聖霊をお与えになった時とは違う、新たなもっと画期的な仕方で豊かに聖霊をお与えになることを意味していると思います。弟子たちがそのお言葉に従って、本日の第一朗読に読まれたように、恐らく主が最後の晩餐をなさった広間で、一同が一つになって集まっていると、「五旬祭の日が来て、…突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響き渡りました」。それは、どんな風の音だったのでしょうか。私は聖書のこの箇所を読む時、いつも竜巻の音を考えます。それはすぐに過ぎ去る時間的には短い激しい暴風の音ですが、多くの人に驚きと恐怖の念を抱かせる大きな風音で、私は天からの叱責の声だと考えています。

④ その時実際にエルサレムで竜巻が起こったのかどうかは分かりませんが、ユダヤ教の三大祝日の一つである五旬祭のため、諸外国からも大勢集まって来て滞在していた信心深い巡礼者たちが、この物音に驚いて使徒たちのいた所にまでもやって来たことを思うと、単なる突風の音ではなく、諸所に被害を与えた程の竜巻の音だったのではなかったか、と思われます。主イエスの公生活の始めにも、ヨルダン川でのご受洗の時に聖霊が鳩のように主の上に降り、天から「あなたはわが愛する子、わが心にかなう者」という声が聞こえたという、平和な喜びに満ちた話の直後に、マルコ福音には「聖霊がイエスをすぐ荒れ野に追いやった」という、厳しい言葉が読まれます。聖霊は主イエスの体をすぐに荒れ野に追いやる程、厳しく鍛錬なさるお方なのです。同様に新しく生まれるキリストの教会共同体の始めにも、聖霊は激しい竜巻のような厳しい叱責の声をエルサレム中に響き渡らせて、使徒たちの上に降臨なされたのではないでしょうか。私たちの信奉している神は、叱ることを知らない優しさ一辺倒の柔和な神ではありません。私たちの心の奥に眠っているあの世的霊の能力を目覚めさせるために、時には厳しく叱責したり、思わぬ苦難や災害、病苦などを嘗めさせたりなさる強い神なのです。

⑤ 余談になりますが、六人兄弟の末っ子に生まれた私は、中学1年の頃から度々長兄の子供の子守をさせられて、その子が二歳、三歳頃に厳しく叱った経験を何度かしています。司祭になってからも、甥の子供が二歳の誕生日を迎えた時に、その両親の許可を得て叱って泣かせ、幼児に対する叱り方や褒め方などを教えたのを始めとして、信者や親しい知人の幼児を全部で少なくとも十数人、おそらく二十人以上も叱った体験をもっています。幸い私から叱られて泣いた子らは、その後皆立派な心に成長して親たちから喜ばれており、もう大人になっているその人達から、私は今でも尊敬されています。

⑥ 戦後のわが国には各人の自由を極度に尊重する思想が広まり、「子供は叱ってはいけない」という幼児教育も日教組などによって広められましたが、そういう教育を受けた人たちが大人になると、自分で自分の心を厳しく統御できずに様々の依存症やうつ病に悩んだり、自分の望み通りには動いてくれない学校や社会に対する不満・鬱憤に苦しんだり、子供の叱り方を知らないので、自分の子供の心の意志力を目覚めさせ伸ばしてあげることができずに、結局忍耐心に欠け悩むこと苦しむことの多いひ弱な子供や人間にしてしまっている例が、今の日本社会には数多く見受けられます。知識や技術を身に付けただけで、心の意志力を正しく鍛え上げることを怠って来た偏った戦後教育の犠牲者たちは、本当に可哀そうだと思います。理知的能力は十分に備えていても、家庭や社会や温かい交流関係の雰囲気を乱したり、息苦しいものにしたりして、自分で自分を苦しめ悩んでいるのですから。現代日本に多いそのような人たちの心の目覚めのためにも、神の霊に憐れみと照らしの恵みを祈り求めましょう。

⑦ 聖霊降臨の主日を迎えて、聖霊主導の生活を営もうと決意を新たにする人は、自分の自己認識についても反省する必要があります。多くの人は、無意識のうちに自分は他の人たちからどう思われているかを中心とする自己認識を、心に抱いています。それはこの世的な人間理性が心の中に自然に造り上げたもので、多くの人は無意識のうちに人間中心のそういう自己認識に囚われながら生活しています。そういう生き方ではなく、自分は神からどう思われ望まれているのだろうかと、絶えず愛と信仰をもってたずね求める自己認識を持つように心がけましょう。聖書によりますと、聖母は「主のはしため」、洗礼者ヨハネは「荒れ野に叫ぶ者の声」という自己認識を堅持しておられたようです。それ一つだけではなかったでしょうが、とにかく神の御前での自己認識を堅持して、他の人たちからどう思われているかなどの思いに囚われておられなかったことは、注目に値します。諸聖人たちも皆それぞれに、神の御前での自己認識を心に大切にしていました。それは、聖人たちが残された日記や著作の諸所にそれとなく表現されています。例えば小さき聖テレジアは、その自叙伝の中に自分を幼子イエス様の手鞠と称したことがあり、福者マザー・テレサも「私はただ神の手の中の小さな鉛筆に過ぎません」と話されたことがあります。そういう自己認識は幾つあっても結構ですが、神中心の自己認識を大切にして、人間側の評価に囚われない心の中でのみ、聖霊はのびのびと働いて下さるように思います。聖霊の恵みに浴した私たちも、聖霊の生きた器となるよう決意を新たにして励みましょう。

⑧ 本日の第二朗読の出典であるコリント前書12章には、「あなた方はキリストの体であり、一人一人はその部分です」や「これら全てのことは同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままにそれを一人一人に分け与えて下さるのです」という言葉が読まれますが、私はこれらの言葉を読む時、私たち各人はそれぞれキリストの体の細胞であるという考えを新たにします。近年の研究によりますと、人体に60億もあるという細胞の各々にはヒトゲノムという各人独自の遺伝子、すなわちその人の基本的設計図が組み込まれていて、細胞はそれぞれ情報の授受機能や増殖機能等々を備えて独自に生きていますが、より大きな命から離脱すると死んで、灰に帰してしまいます。このことは、洗礼を受けた私たちの霊的現実のシンボルでもあると思います。私たちは皆、洗礼によってキリストという一つの体の細胞になっているのではないでしょうか。細胞は生きてはいますが、霊的現実全体を見る目はもっていません。ですから何事にも霊の導きに従う精神が特に大切だと思います。さもないとガン細胞のようになって、神中心でない病的毒素を他の細胞たちに広めたりもする危険性がありますから。これが、私の神中心的自己認識の一つとなっています。