2011年6月19日日曜日

説教集A年:2008年5月18日三位一体の主日(三ケ日)

第1朗読 出エジプト記 34章4b~6、8~9節
第2朗読 コリントの信徒への手紙2 13章11~13節
福音朗読 ヨハネによる福音書 3章16~18節

① 私たちの信じている唯一神は、決してお独りだけの孤独な神ではなく、三位一体という共同体的愛の神あります。三方で唯一神であられるという現実は、この世の物質世界での事物現象を合理的に理解し利用するために神から与えられている人間理性には、理解することも説明することもできないあの世の現実で、深い神秘ですが、神は御自身に特別に似せてお創りになった人間たちに、その神秘なご自身を御子を介して啓示し、人間たちから信仰によって正しく知解され愛されることを望んでおられます。使徒ヨハネはその福音書の冒頭に、神の御ことばが人となって私たちの内に宿ったこと、そしてご自身を受け入れた者には神の子となる資格を与えたこと、こうして信仰により神から生まれた人たちが神の栄光を見たことを証言しています。したがって、人間理性にとっては全く近づき得ない大きな神秘ですが、神からの啓示や神の御子の働きを信仰と愛をもって受け入れる人の心の奥には、神の霊が働いて超自然の現実を悟る方へと心を導き、数々の体験を通してゆっくりとその大きな神秘に対する独特の愛のセンスが心の中に目覚めて来て、三位一体の神と共に生きることに感謝と喜びを見出すに至るのだと思います。使徒ヨハネのように、私たちの心も数多くの体験を介して、神の栄光を見るようになるのです。

② 本日の第一朗読には、神の御言葉に従ってシナイ山に登ったモーセは、手に二枚の石の板を携えていたとあります。この話の少し前にある出エジプト記の31章、32章を読みますと、神はシナイ山でモーセに、ご自身でお造りになった二枚の石の板を渡されましたが、その板の表にも裏にも神がご自身でお書きになった掟が彫り刻まれていたとあります。しかし、その板を携えて山を下りて来たモーセは、イスラエルの民が麓で金の子牛を鋳造し、偶像礼拝の罪を犯しているのを見て激しく怒り、その板二枚を投げつけて砕いてしまいました。民がモーセの言葉に従ってその罪を悔い改め、宿営から離れた所に神臨在の幕屋を建て、神と共に歩む心を堅めますと、神はその幕屋の入口に雲の柱で臨在なされて民の礼拝を受け入れ、モーセに、前と同じような石の板二枚を明日の朝までに造ってシナイ山に登って来るようにお命じになりました。神がその板に、前にお書きになったのと同じ掟を彫り刻むために。本日の朗読箇所は、このお言葉に従って山に登ったモーセについての話です。

③ シナイ山は石灰岩の山です。そこにはカルシウム分を多く含む石灰石も諸所にあったと思われます。そういう石灰石は、大昔は海の底になっていたと思われる我が国にも多く見られます。空気に触れている表面は固いですが、その表面の肌を打ち砕くと、内部は少し柔らかい石になっています。モーセは山麓でそのような石灰石を見つけて、石の板二枚を整え、山頂にお持ちしたのだと思います。朗読箇所の最後にモーセは神に、「かたくなな民ですが、私たちの罪と過ちを赦し、私たちをあなたの嗣業として受け入れて下さい」と願っています。この「嗣業」という言葉は、他の人に譲渡できない遺産を指していますから、モーセはイスラエルの民をいつまでも神の所有財産として下さるように、と願ったのだと思います。神の嗣業であるなら、民は法の上では神の御旨に反して行動する自由を持たないことになり、神の奴隷のような身分になりますが、これがモーセの望んでいた生き方であったと思われます。

④ 本日の第二朗読にはまず、「兄弟たちよ、喜びなさい。完全な者になりなさい」「思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」などの勧めが読まれます。使徒パウロがここで考えていることは、当時のコリントが様々な国の出身者が住む国際的商業都市であったことを考慮しますと、人々が相互にどんなに心を開いて合理的に話し合ってみても実現し難い生き方を意味していたと思われます。現代の都市部の住民たちと同様に、人によって育ちも考えも好みも関心も大きく異なっていて、自然的にはまとめようがない程に多様化していた、と思われるからです。

⑤ 使徒パウロが意図していたのは、神中心に生きる主イエスにおいて喜ぶこと、完全な者になろうとすること、思いを一つにすること、そして平和を保とうとすることだと思います。彼はその言葉に続いて、「そうすれば、愛と平和の神があなた方と共にいて下さいます」と書いているからです。全てが極度に多様化しつつある現代のグローバル社会においても、もし皆が主イエスの精神と一致して生きようと心がけるなら、生まれも育ちも文化も大きく異なる人たち同志が、心を一つにして愛し合い、平和に暮らすことは難しくありません。主イエスを介して、共同体的な三位一体の神が大きく相異なる人々の心を一つの霊的共同体に纏めて下さるからです。ですからパウロも最後に、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にあるように」と祈っています。

⑥ 本日の福音の中で使徒ヨハネは、「神はその独り子をお与えになった程、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と、神の御子主イエスがこの世に派遣されて人となった目的について説明しています。三位一体の神が、「我々にかたどり、我々に似せて」とおっしゃって、私たち人間を創造なされたのは、ほんの百年間ほどこの苦しみの世に生活させるためではありません。私たちは皆、神のように一つ共同体になって永遠に万物を支配し、永遠に幸せに生きるために創られたのです。私たちの本当の人生は、たちまち儚く過ぎ行くこの世にあるのではなく、永遠に続くあの世にあるのです。しかし、その本当の人生に辿り着くには、神がお遣わしになった御子イエス・キリストを信じ、「キリストの体」という一つ共同体の細胞のようにして戴かなければなりません。私たちは皆、三位一体の神に似せて愛の共同体的存在になるよう神から創られていることを心にしっかりと銘記し、国や民族、文化、宗教などの相違を超えて全ての人を、特に社会の中で無視され勝ちな小さな人たち、苦しんでいる人たちを愛するように努めましょう。そのための広い大きな愛の恵みを三位一体の愛の神に願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。