2013年5月12日日曜日

説教集C年:2010年主の昇天(三ケ日)



朗読聖書: . 使徒 1: 1~11. 
         Ⅱ. ヘブライ 9: 24~28, 10: 19~23.
      . ルカ福音 24: 46~53.

    三日前に素晴らしい五月晴れに恵まれ、名古屋の神言神学院のベランダに出て、強風が運ぶ空気を吸っていましたら、その風が美しく薫っているように実感しました。花の香りなのか新緑の香りなのか分りませんが、私はその時ふと、新しく萌え出た若葉たちも薫っているのではないか、などと考えました。そして神も、天上から私たちを祝福しておられるように思いました。本日の福音は、ルカがテオフィロ閣下に宛てて書いたルカ福音書の最後の部分ですが、本日の第一朗読は、ルカが同じテオフィロ閣下に宛てて書いた使徒言行録の冒頭部分です。ルカはこの二つの著書を主の昇天という出来事の記事で繋いでいますが、主の昇天があの世とこの世とを結ぶ出来事、天にお昇りになった主とこの世の教会とを結ぶ画期的出来事であることを意識して、意図的にそのように両書を構成したのではないでしょうか。

    なお、使徒言行録が紀元61年頃にパウロがローマに到着し、皇帝による裁きを待つ身ながらも獄中にではなく、ある程度の自由が許され、自費で借りた宿舎に滞在して、訪れる人々に教えを説いたりしながら2年間ほど留まっていた所までで終わっており、使徒言行録の最後を飾るにふさわしい、67年のペトロとパウロの殉教について述べていないことから察しますと、使徒言行録は60年代の前半に執筆されたものだと思われます。したがって、それ以前に執筆されたルカ福音書は、50年代後半頃の作品だと思われるというのが、教会史学者たちの伝統的見解であります。ローマのグレゴリアナ大学でその学者たちに学んだ私は、今も同じ見解を大切にしています。戦後次々と矢継ぎ早に新しい見解を発表した一部の聖書学者たちは、ルカ福音書の21章に述べられているエルサレム滅亡についての主の預言が、70年に全くその描写通りに実現したことから、ルカは70年代に入ってからその福音書を書いたのではないかなどという見解を広めましたが、それを学説とするためには、主が生前に40年ほど後のエルサレム滅亡を細かく正確に予言することはできなかったと証明しなければなりません。そんな証明はできないのですから、私は初めから聖書学者たちのそのような新しい見解には警戒し、従いませんでした。

    本日の福音によりますと、主は昇天する前に、まず弟子たちの担うべき使命について、「あなた方はこれらのことの証人である」と語っておられます。何を証しするのでしょうか。それについて主は、メシアが苦しみを受け、三日目に死者の中から復活することと、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられることとの二つを挙げておられます。メシアの受難と復活については弟子たちが目撃証人ですから分かりますが、罪の赦しを得させる悔い改めをメシアの名によって宣べ伝える主体は一体誰なのでしょうか。聖書学者の雨宮神父によりますと、それはそれについて証しする弟子たちではないでしょうから、第二イザヤの預言などを参照しますと、神ご自身が悔い改めを宣べ伝える主体になっておられるのではないかとのことです。現代には、神のために自分が主導権をとって宣教するのだ、と考えている宣教師が少なくないようですが、聖書によると神が宣教の主であり、神が主導権をとり、人間を生きる器・道具として宣教なさるというのが、神の望んでおられる宣教であると思われます。私たち人間は主イエスや聖母マリアのように、神の僕・神の婢としてひたすら神の導きや働きに従って生きようとしてこそ、神のなさる宣教を最もよく推進し、豊かな実を結ばせるに到るのではないでしょうか。主の弟子たちも、そのように努めることによって実践的に学び知った神の働きについて証しする使命を主から頂いたのだと思われます。
    主は続いて、弟子たちがその使命を果たすための神の力、聖霊を父の許から送ると約束なされ、天からのその力に覆われるまでは、都エルサレムに留まっているようにと、お命じになりました。このように話された後に、主はエルサレムの東方、べタニアに近いオリベト山の上で、手を上げて弟子たちを祝福しながら、天にお昇りになったのです。もはや死ぬことのない永遠の命の輝きと喜びでいっぱいの主のお姿は、集会祈願にもありますように、私たちの未来の姿を示していると思います。将来は私たちも皆、神の超自然の恵みによってそのような輝かしい姿に復活し、感謝と喜びの内に主と共に永遠に生きるのだと思います。本日その喜ばしい出来事を追想しながらミサ聖祭を献げて祈る私たちをも、主は御手を上げて祝福しておられることでしょう。しかし、その主は、死ぬことのないあの世の永遠の命に復活なされたのであることを心に銘記していましょう。私たちも皆、一旦この世の体に死んであの世に移り、あの世の体に復活して、主が開いて下さった道を通って天の栄光へと昇って行くのだと思います。神が私たちのために備えて下さったこの輝かしい解放と救いの恵みの故に、神に深く感謝致しましょう。

    ところで本日の第一朗読によりますと、昇天して雲に隠れてしまわれた主イエスのお姿を慕い求めて天を見つめていた弟子たちに、白い服を着た二人の天使が傍に現れ、「ガリラヤ人たちよ、なぜ天を見上げて立っているのか。云々」と話しかけたと述べられています。マタイやマルコの福音書の最後も、弟子たちの福音宣教への派遣やその活動業績の言葉で結ばれていますが、ルカ福音書も、主の福音宣教のその使命をしっかりと想起させているのではないでしょうか。第一朗読には「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、私の証人となる」という主のお言葉も読まれます。このお言葉も大切だと思います。第二ヴァチカン公会議は「教会は本来宣教者である」と断言していますが、復活なされた主は実際に私たちの間に現存し、聖霊を送ることにより主の僕・婢として生きようとしている私たちを道具のように使いながら、神の救いの御業を全人類に広めつつあるのではないでしょうか。自分中心・人間中心の立場から神による救いの恵みを仰ぎ見るのではなく、神の道具として使って頂くという立場から、神の御導き、御働きに実践的に従い協力するよう心掛けましょう。牧者である主の御声を正しく聞き分けそれに従う小羊のいる所に、復活の主とその聖霊の御力がのびのびと働き、神を知らない世の闇に生きている人々の心を神信仰の光へと導いたり、病める人々を癒したり救いに導いたりなさるのではないでしょうか。

    余談になりますが、本日はちょうど十年前に帰天なされたヨハネ望月光神父の祥月命日に当たります。望月神父は長年ドイツの一流神学者たちに学んでこともあって、カトリックの伝統的神学を広く深く身につけておられ、私の見る所では、これまでの東京教区司祭の中で最も優秀な神学者の一人であったと思います。日本語やラテン語の著作を何冊も残しておられますが、公会議後に流行した新しい神学とは違うので、残念ながらまだ多くの人に知られておらず、世に埋もれています。私は40年程前に秋田教会で望月神父と親しく語り合っただけですが、現代の流行思想に批判的な望月神父の見解は伝統的神学路線を尊重する私の見解でもありますので、神父のあの世からのお助け、お導きを願いながら、あの世での望月神父のお幸せを祈り求めつつ、本日の御ミサをお献げしたいと思います。ご一緒にお祈り下さい。