2013年12月1日日曜日

説教集A2011年:2010年待降節第1主日(三ケ日)


第1朗読 イザヤ書 2章1~5節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 13章11~14a節
福音朗読 マタイによる福音書 24章37~44節

 
    待降節のこの12月には美しく晴れ渡った夜明け前の空に、聖母マリアのシンボルとされている「明けの明星」金星が大きく輝くのを見ることができます。昨日の朝もそれを眺めて、これからの待降節の間中、時々この星を眺めながら、いつもそっと私たちを見守っていて下さる聖母マリアの温かい母性愛に感謝し、その取次ぎを願い求めつつ、主をお迎えする心の備えに努めようと決心を新たにしました。待降節は、私たち人類の歴史の中にお出で下さる救い主をお迎えする心を整える時、と申してもよいと思います。神から派遣された神の御子であられるその主は、2千年余り前に一度ユダヤにお生まれになり、受難死によって人類を贖う御業を成し遂げて下さいましたが、もはや死ぬことのないあの世の永遠の命に復活なされ、その後はずーっと神出鬼没のその復活の命に生きておられます。そしてその主をお迎えする心を備えている人の所には、幾度でもあの世からこの世の私たち各人の生活している所にお出で下さいます。私たち現代人の待降節は、か弱い幼児のお姿で霊的に私たちの間にお出で下さるその復活の主を、新しい一年にために決心を新たにして相応しくお迎えするため、私たちの心を整える期間と考えてもよいのではないでしょうか。私たちの平凡な日常生活の中への主のこのような身近な臨在に対する、信仰と希望を新たに致しましょう。

    本日の第一朗読は、二千七百数十年前に、イザヤ預言者が見たこの世の終末後の世界についての幻であります。典礼暦年最後の週である先週の週日に、教会はルカ福音書の中からこの世の終末についての主の予言を毎日のように朗読させ、主の再臨の日に備えて「いつも目覚めて祈る」ようにと、私たちの心を堅めさせましたが、死とその苦しみを恐れるだけでは足りません。死の恐怖は私たちの奥底の心を目覚めさせるためにあるのです。その死の背後には、神が大きな愛をもって私たちを待っておられるのです。その神に対する愛と信頼の内に、恐れずに死に向かって行きましょう。私たちの心は青春期に自分の人生、自分の将来を目指す目覚めを体験しましたが、体力も知力も衰え始める熟年期、老年期にも奥底の心の神への目覚めというものがあります。終末期の恐ろしいマイナス面にだけ囚われることなく、愛の神に心の眼を向けて雄々しく立ち上がりましょう。教会は本日の第一朗読で、主の再臨後の輝かしい平和と愛の世界についても眼を向けさせています。殆ど同じような幻を預言者ミカも見たのか、ミカ預言書の4章にも同様の預言が記されています。あるいはミカはここで、先輩の預言者イザヤの言葉を部分的に引用したのかも知れませんが、それは、全知全能の神が直接に支配なさる世界であり、国々の民がこぞって大河のように主の御許に集い、もはや一切戦うことをしない美しい平和と愛の世界であります。現代世界には人間中心の理知的な考えや意欲が齎した各種の対立抗争のため、テロや破壊・貧困・不安などに悩まれている人たちが大勢いますが、主キリストが全宇宙の王としての権威と栄光の内に再臨なさり、諸国民や国々の不義と争いをお裁きになると、忽ち素晴らしい人類世界が実現するに至るのです。この大きな明るい希望を心に堅持しながら、これからの一年も神の勧めや戒めに喜んで従うよう心がけましょう。

    使徒パウロは第二朗読の中で、「眠りから覚めるべき時が既に来ています」「救いが近づいているからです」「闇の行いを脱ぎ捨てて」「品位をもって歩みましょう」「争いと妬みを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい」などと勧めています。新しい典礼年の初めにあたり、とかく目先の苦楽や不安などに囚われ勝ちであったこれまでの生き方を脱ぎ捨てて、洗礼の時に神に捧げた決心を新たにし、神中心の聖い生き方に目覚めて、誇りと品位をもって生活するようにというのが、使徒の勧めだと思います。「主イエス・キリストを身にまといなさい」と、主を衣服であるかのように表現していることは興味深いですが、私たちが毎朝その日の生活のため衣服をまとうように、使徒は、私たちが毎朝主キリストの精神で生きる心の眼をはっきりと目覚めさせながら、その日の生活を始めるよう勧めているのだと思います。

    主イエスも本日の福音の中で、二度も目を覚ましているよう警告しています。世の終りも私たち各人の裁きの時死の瞬間も、思いがけない形で突然に来るからです。旧約聖書に語られているノアの洪水も、主によると全く突然に、人々が楽しく食べたり飲んだりしていた時に急に始まったようです。未曾有の恐ろしい大集中豪雨が始まってからでは、もう逃げ場がありません。主は「人の子が来る時も、このようである」と警告しておられます。一緒にいる二人のうち、「一人は連れて行かれ、一人は残される」のです。どちらが救われ、どちらが滅ぼされるのか分りませんが、ノアの洪水を例にとって話されたのですから、ノアとその一族のように残された人の方が救われるのかも知れません。あるいはその逆に、ノアとその一族のように船に乗って連れて行かれる方が救われるのかも知れません。現代世界に流行している各種の詐欺や盗みも、全く思いがけない巧妙な仕方で多くの人を不幸のどん底に陥れています。通常の常識に従って用心していても、その想定外の仕方で発生するのが、現代の詐欺や盗みの特徴のようです。これまでの社会的常識に従って生きているだけでは足りません。何よりも神に祈り、神の勧め・神のお言葉に対する心のセンスを実践的に磨いていましょう。そうすれば、私がこれまで幾度も体験して来たように、神が不思議なほど私たちを護り導いて下さいます。神に対する信頼心を新たにしながら、心の奥に神の御子を新たに迎え入れる、待降節の修行に励みましょう。