2013年12月22日日曜日

説教集A2011年:2010年待降節第4主日(三ケ日)



第1朗読 イザヤ書 7章10~14節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 1章1~7節
福音朗読 マタイによる福音書 1章18~24節
   本日の第一朗読の背景について、少しご説明致しましょう。アッシリアが軍事力を強化して南の国々を侵略する勢いを見せ始めた時、シリアと北イスラエル王国とは同盟を結び、ユダ王国をもこの反アッシリア同盟に参加させようとしました。しかし、ユダのアハズ王はその同盟に参加しようとはしませんでした。すると突然シリアとイスラエルの同盟軍がまずユダ王国を攻撃して、反アッシリア同盟の勢力を強大にしようと攻め上って来ました。その時「王の心と民の心は、風に動かされる森の木々のように動揺した」とイザヤ書7章にあります。すると預言者イザヤは「恐れることはない。云々」と神の言葉を告げたのですが、恐れに囚われて気が動転していたアハズ王は、その言葉に従おうとしませんでした。

   そこで神は預言者を通して、本日の朗読にあるように、アハズ王に「神にしるしを求めよ」と話したのです。でも、王はそのしるしを求めようとしないので、神はもどかしい思いをさせるそのマイナス志向の態度を非難なさった後に、お与えになったのが、「おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」というしるしでありました。神は続いて、アハズ王の恐れるシリアとイスラエルがアッシリアに征服されることも予告なされ、事実そのようになりました。神がお与えになったしるしにある「インマヌエル」という名は、「神我らと共に」という意味の言葉です。

   主キリストの来臨によって現実のものとなった神の御子のこのお名前を、現代の私たちも大切にし、その神秘を実践的に益々深く悟るよう心掛けましょう。「神我らと共におられる」という、私たちの日常生活の中での神の臨在の神秘を。全知全能の神の御子は実際に私たちのすぐ傍で、目に見えないながら隠れて現存しておられ、私たちの全てを、特に小さな言葉や行いを細かく見聴きしておられます。裁くためではなく、弱い私たちを導き助けるためにそっと現存しておられるのです。私たちの生活しているこの現代世界はまだ豊かですが、政治的にも経済的にも、また環境面でも若者たちの心の教育の面でも様々な問題を抱えていて、現代社会の将来を不安にしています。しかし、アハズ王のように目に見える人間的な出来事や現象にだけ囚われてマイナス思考に終始することなく、「我らと共におられる神」の現存に対する信仰をもって、その主と共に生きるよう心掛けましょう。そうすれば、その信仰のある所に神がお働きになり、主の隠れた助けを体験するようになります。そして全能の神の現存を実感しながら、一層深く心をこめて日々の祈りを捧げることができるようになります。私は些細なことで神のそのような助けを数多く体験しており、その体験に基づいてこの証言をしています。

   本日の福音は、マリアを迎え入れる直前頃のヨゼフの悩みと夢について語っています。マリアが三か月あまりナザレを留守にしてユダヤに滞在して来た後に、身ごもっていることが明らかになった時、婚約者であるヨゼフは深刻に悩んだと思います。当時のユダヤの制度では、婚約を結んだ時にヨゼフは既にマリアの夫なのですが、当時のユダヤ社会では、女の慎みを欠く行為として禁じられていた「若い女の一人旅」をあえて為して、同居前に遠く離れたユダヤの親戚の家に滞在して来たマリアの身に、何かが起こったことが明らかになったからでした。察するにマリアも同じころ苦しみつつ、ヨゼフのために神に真剣に祈っていたと思います。天使から一人でお告げを受け、それを信じただけでは、自分が本当に神の御子を宿しているのかどうか自分では説明できません。古今未曾有のそんな奇跡についてヨゼフを説得することもできません。マリアはおそらく二、三日間悩んだ挙句に、天使が最後に告げた「あなたの親戚エリザベトが老齢なのに男の子を身ごもってもう六カ月になっている」という言葉は、自分がそれを実際に確認して、それを自分が神の御子を宿したことの証拠とせよ、という意味なのではなかろうか、身重になっている老エリザベトは若い自分の手助けを必要としているであろうし、自分が神の御子を宿しているのなら、一人旅をしても神によって守られるであろう、などと大胆に考えて、レビ族出身で識字者であったマリアは、夫のヨゼフに簡単な書き置きをし、朝早くに急いでユダヤのザカリアの家への女の一人旅をなしたのだと思います。

   そして天使のお告げ通りに年老いたエリザベトがその三カ月後に男の子を産み、ザカリアのおしがその子の割礼の直後に、天使の言葉通りに癒された奇跡などを目撃したマリアは、自分が天使のお告げ通りに神の御子を宿している、という証拠を握ることができました。自分が一人旅の途中でも神に守られていたことを体験したマリアは、そのことをヨゼフにも伝えてその疑いを晴らす機会を求めて、一心に神に祈っていたと思います。その時、主の天使、恐らく大天使ガブリエルがヨゼフの夢に現れて、本日の福音にあるような知らせをしたのだと思います。マリアの誠実さを少しも疑っていなかったヨゼフは、素直に天使の言葉に従い、マリアを迎え入れて彼女の見聞きして来た神よりの奇跡的出来事も聴いて、信仰と喜びのうちに、二人で神の御子の誕生と育ての世話に励んだのだと思われます。

   現代の私たちも、小さなご聖体の形で私たち各人のうちに宿り、現存して下さる全人類の救い主、神の御子イエスに対する信仰を新たに致しましょう。このご聖体の主の現存に対する信仰の内に生活するなら、たとえ外の世界がどれ程危険で恐ろしいものに変貌しようとも、神の御子を宿していた聖母のように全ての不安を退け、雄々しく逞しく生きることができます。司祭修道者の召命の減少や、年々進む高齢化のため、今の教会は至る所で若い意欲も活力も明るさも失って来ており、このままだと問題の多い現代社会の混沌とした流れに次第に呑みこまれ、消えて行くのではないかという怖れを抱かせます。私たち自身の力、人間の力に頼っていては、この絶望的事態に打ち克てません。2千年前の主のご誕生前のヨゼフとマリアの模範に倣って、私たちもこの平凡な自分の日常生活の内に主をお迎えして、主と共に日々の生活を営む信仰と愛の心を新たに準備しましょう。そのための神の恵みと導きを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。