2013年12月9日月曜日

説教集A2011年:2010年無原罪の聖マリアの祝日(聖マリアの無原罪修道院で)



第1朗読 創世記 3章9~15、20節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 1章3~6、11~12節
福音朗読 ルカによる福音書 1章26~38節
    私は長年神言神学院の一番高い個室に住んでいて、すぐ隣のベランダに出て夜空の星を眺めることが多いですが、毎年の待降節には夜明け前の5時前後頃に美しく輝く「明けの星」金星を仰いで手を合わせています。同じ金星は、毎年の8月聖母被昇天祭頃には日没後の夜空に「宵の明星」として輝きますので、これは神が宇宙創造の始めから地上の私たちの心を照らし、希望を与えるために、このように金星の動きを整えて下さったのだと考えています。そしてその美しく輝く一番星・金星を、聖母マリアのシンボルとして崇め尊んでいます。

    本日のミサの第一朗読は、創世記3章に語られている人祖の罪についての話からの引用ですが、私はこの神話を読むと、いつも使徒ヨハネの孫弟子聖エイレナイオス司教のことを思い出します。晩年に今のトルコ半島の西岸、エーゲ海に面した地方で働いた使徒ヨハネから愛された弟子は、2世紀半ば過ぎに殉教したスミルナの聖ポリカルポ司教ですが、そのポリカルポの弟子が最初のギリシャ人古代教父、ガリアの聖エイレナイオス司教です。日本ではイタリア読みで、聖イレネオと呼ばれることが多いかも知れません。この聖エイレナイオス司教は、その著書『異端駁論』の中で人祖の妻エワの精神と聖母マリアの精神との興味深い比較をしており、「マリア学」の生みの親とも呼ばれています。それで本日は、その聖エイレナイオスの論述に基づいて、エワの精神とマリアの精神について考えて見ましょう。

    創世記の神話によりますと、人祖アダムはこの自然界に無数の生物が創られた後に、それまでの生き物とは違って、神に特別に似せた生き物として創られ、神の超自然的息吹を吹き入れられました。そしてその妻エワが創造された後に、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地上を這う生き物を全て支配せよ」という御命令を頂戴しました。神は地上の万物を支配させるため、人間を万物の霊長として特別にご自身に似せてお創りになり、その鼻にご自身の命の息、すなわち聖霊を吹き入れられたのだと思います。それから神は東方にエデンの園を設け、人祖を連れて来てそこに住まわせ、そこを耕し守るようにさせました。そこには四つの川があり、あらゆる種類の木が生えているとありますから、園と言ってもかなりの広い肥沃な土地であると思います。人祖はそこにあるどの木の実を取って食べてもよいが、ただ一つ、園の中央に「命の木」と並んで生えている「善悪を知る木」の実だけは「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と神から命じられました。それは、人祖の心が神の御旨中心に生きるかどうかを試す木であったようです。アダムとエワは、始めの内はその美しいエデンの園で楽しく豊かに暮らしていたでしょうが、恐らくまだ土地を耕すという仕事を始めないうちに、彼らの心は次第に、何でも自分の望み中心に利用し楽しもうとする方に傾いて行ったようです。

    聖エイレナイオスはそれを「心の幼児性」という言葉で説明しています。彼が生きていた紀元2世紀のローマ帝国には、打ち続く平和と経済的豊かさの中で生まれ育った人々の間に、体は大人でも、いつまでも大きくなった甘えん坊のような心で、何でも自分中心に巧みに利用しながら生活している人間を多く見かけたのかも知れません。親をも社会をも友人をも、全てを自分中心に巧みに利用しながら生活するそのような人間は、現代社会にも少なくないと思います。人祖はこのような「心の幼児性」のために、蛇の誘惑に負けて禁断の木の実を食べ、全被造物の霊長として神に背くという罪を犯し、その罪の穢れを全被造物に及ぼしてしまいました。楽園の中央に生えていた命の木の実を食べていれば死ぬことはなかったでしょうが、その楽園から追われ、自分中心主義の罪の穢れで死と苦しみの支配する世と変えた世界に住むようになってしまいました。しかし神は人祖を騙した蛇に向かって、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」と謎めいた預言的宣告をなさり、人類と全被造物に救済の望みをお残しになりました。

    時が満ちて、神は予め預言者たちによって予告されていたメシアを派遣するに当たり、まずその母となるマリアを人祖の罪の穢れの全くない、無原罪の状態でこの世に生まれさせました。そしてその両親は既に年老いていたからなのか、まだ幼い内に神殿に捧げられ、神殿の傍でレビ族のやもめたちが経営していた女の子たちの育児園に預けられたようです。一人で働ける年頃になるまでそこで生活したマリアは、昨年もここで話したように、無原罪という心の清さ故に、日々利己的人間達の言うこと為すことに苦しみ、その苦しみ故にひたすら神に縋り、その心は神中心主義の内に神の婢として、次第に強く逞しく成長して行ったと思われます。昨年アルスの聖司祭ヴィアンネーの没後150周年を記念して「司祭年」を祝いましたが、優れた聴罪司祭ヴィアンネーは説教の中でよく、私たちの心の奥底に根強く住みついている「古いアダムの罪」について話していたそうです。洗礼を受けても、各人が心の奥底に住むその「古いアダムの罪」、自分中心主義の罪と戦おうとしなければ、洗礼の恵みは心の奥底にまでは浸透しません。告解の時多くの人は、2千年前のファリサイ派のようにただ規則違反だけを究明し告白しようとするようですが、神が一番嫌っておられるのは、私たちの心の奥に住む自分中心主義の「古いアダムの罪」一つだけなのです。無原罪の聖母に心の光、照らしの恵みを願って、その隠れている奥底の罪を正しく見定め、それと戦う私たちの心の目覚めを願い求めましょう。