2013年12月8日日曜日

説教集A2011年:2010年待降節第2主日(三ケ日)



第1朗読 イザヤ書 11章1~10節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 15章4~9節
福音朗読 マタイによる福音書 3章1~12節

    一週間前のイザヤ2章から引用された第一朗読のように、イザヤ11章始めの本日の第一朗読も、神の霊に満たされたメシアの支配する世界における、万物平和共存の理想的状態について預言していますが、これもメシアの栄光に満ちた再臨によってすべての人が復活し、神の子らとされた人たちの生きるあの世の世界についての描写であると思います。罪の力がまだ支配している死と苦しみのこの世においては、そのような完全な平和共存は一度も実現したことがありません。使徒パウロもローマ書8章に、「被造物は神の子らの現れるのを、切なる思いで待ち焦がれているのです。(今は)虚しさに服従させられていますが、」「やがて腐敗への隷属から解放されて、神の子らの栄光の自由にあずかれるのです」などと書いていますから。

    神に特別に似せて創造され、神のように永遠に生きる存在とされている私たち人間はその神の国に復活したら、主キリストと一致して愛をもって万物を深く理解し支配する特別の使命を、神から与えられていると思います。そしてその時に実現する世界、万物が相互愛の内に共存する平和な世界を、神は預言者イザヤにお見せになったのだと思います。使徒パウロは本日の第二朗読の中で、「私たちは聖書から忍耐と慰めを学んで、希望を持ち続けることができるのです」と述べていますが、イザヤが予見したこの遠い将来の世界についての啓示からも学んで、今の苦しみの世の現実に挫けることなく、明るい大きな希望をもって生き続けましょう。この苦しみの世の事象を観察する時、今はまだこの世の万物は気象も大地も動植物も皆苦しんでいるように思われますが、神信仰のうちに毅然として立ち、愛をもって呼び掛けたり命令したりするなら、主キリストも話しておられるように、万物の霊長である神の子らの呼びかけや願いに応じてくれるような、人間に対する従順の側面も潜んでいるのではないでしょうか。創世記1:28によりますと、神は男と女に創造なさった人間に、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物を全て支配せよ」とお命じになったのですから。神が人間に最初にお与えになった、この大きな使命を忘れないよう心掛けましょう。私たちが主キリストと共に神に対する信・望・愛の内に毅然として立ち、神以外の何物をも恐れない神の子の精神で生き続けるなら、被造物は皆そのような人間に従うよう神から創られていると信じます。今はまだこの罪の世の大きな不調和と相互対立関係の中で苦しみながら生きている人たちが大勢いますが、神が聖書を通して教えておられるこの明るい人生観を、私たちの実際の生活と祈りを介して一人でも多くの人たちに宣ベ伝えるように努めましょう。

    毎年待降節第二と第三の日曜日の福音には洗礼者ヨハネが登場しますが、本日の福音に登場している洗礼者ヨハネは、ユダヤの荒れ野で「天の国は近づいた」と叫びながら、非常に厳しい調子で人々に悔い改めを呼びかけています。ラクダの毛衣をまとい、腰に皮帯をしめて貧しい生活を営む、預言者エリヤを思わせるようなその姿を見聞きして、大勢の人がヨハネの下に来て罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けました。そのことを伝え聞いたのでしょうか、ファリサイ派とサドカイ派の人たちも洗礼を受けに来ました。しかし、ヨハネはこの人たちに対しては、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れることを誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。云々」「斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれる。云々」などと、恐ろしい程脅しの言葉を連ねて、悔い改めを迫っています。この時のヨハネは、メシアによる終末の審判が間近に迫っていると考えていたのではないか、などと解釈する人もいますが、これから始まるメシアによる救いの時を歓迎するヨハネの他の言葉などを考え合わせると、まだ世の終わりの審判の時が迫っているのだとは考えずに、ただ心の目覚めの鈍過ぎるファリサイ派とサドカイ派の心に衝撃を与えて、少しでも深くしっかりと目覚めさせるために、厳しい言葉を発したのだと思われます。

    しかし、メシアがこの世にお生まれになったことは、内的には既に世の終わりの審判の始まりでもあると思います。そのこと自体は神からの大きな救いの恵みなのですが、それを受け止める各人の内的態度は、恵みに接する度ごとに、目には見えなくても既に裁かれており、世の終わりにはそれら無数の個々の裁きが劇的に露わになって、赦されるか断罪されるかの決定的裁きが下されるのだと思います。私たちも気をつけましょう。隣人に対する言行、あるいは祈りの時の心の持ち方などは、皆小刻みに終末の時の審判につながって行くのですから。待降節にはよく、「牧場におりる露のように、地を潤す雨のように王は来る」という、詩篇72の言葉が唱えられますが、「地を潤す雨」という表現は、「降るとも見えず」と言われる春の真に細い柔らかな雨を連想させます。牧場に降りる露も、いつ降りたのか分からないような存在であります。待降節にあたって私たちの心がけるべきことは、そういう真に秘めやかな主キリストの来臨と現存に対する奥底の心のセンス、心の信仰感覚を磨くことだと思います。隣人と交わる時、あるいはミサ聖祭や祈りの時、そのことに心がけて、しっかりと深く目覚める恵みを願いましょう。洗礼者ヨハネの説いた「悔い改め」は、自分中心に考えたり話したりし勝ちな私たちの心の奥底に潜む「古いアダムの心」を、これからはただ神の方に向けながら為すというだけの、人間主導の根の浅い「回心」、漢字で心を回すと書くような回心ではなく、神の現存と働きに対する奥底の心の目覚めと、それによる生き方の根本的刷新を意味しています。それは人間の自力ではできない、神の力による一種の奇跡であると思います。その恵みを謙虚に神に願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。