2011年5月15日日曜日

説教集A年:2008年4月13日復活節第4主日(三ケ日) 

第1朗読 使徒言行録 2章14a、36~41節
第2朗読 ペトロの手紙1 2章20b~25節
福音朗読 ヨハネによる福音書 10章1~10節

① 本日の第一朗読と第二朗読は、一週間前の日曜日と同様、聖霊降臨直後のペトロの説教からの引用と、ペトロ前書からの引用です。第一朗読の中でペトロは、「あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神が主としメシアとなさった」ことを、「はっきりと知らなくてはなりません」と説いていますが、ここで述べられている「あなた方が」は、神を信じている人たちをも含め、全人類と考えてよいと思います。神を信じながらも、心の奥底に潜む自己中心主義に克てずに犯してしまう弱さの罪。神の愛に背くそういう罪を償うためにも、主キリストは十字架刑の苦しみと死を神から受けて下さったのです。心の片隅にそういう罪が少しでも残っている限り、霊魂はいつまでも神中心の聖さと純粋さに輝いている天国に、入れてもらうことができないのですから。私たちは、まずこのことをはっきりと自覚しなければならないというのが、使徒ペトロを介して話された聖霊の教えなのではないでしょうか。私たちも、この事を心に銘記していましょう。

② この話を聞いた人々は「大いに心を打たれ」、「私たちはどうしたら良いのですか」と尋ねたとあります。ペトロはそれに対して、「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦して頂きなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。云々」と話しています。ここで言われている「悔い改めなさい」(原文でmetanoesate)という言葉は、単に心を神の方に向けるという意味の「回心しなさい」ではありません。心の奥底から自分の考えや生き方を変更しなさい、という強い意味の言葉です。自分の幸せのためには神をも利用しようとするような心で、目を神の方に向けても恵みはもらえません。「キリストの名によって」と邦訳されている言葉は、直訳するなら「キリストの名の内に」、すなわちキリストの新しい生命の内に入ってという意味で、「洗礼」は以前にも申しましたように、自分中心のこれまでの生き方に死んで、キリストの生命に生かされて、神中心の新しい生き方を始めることを指しています。そうすれば、キリストの御功徳によって心の奥底に宿る自分中心の罪を赦して頂けるのです。そして我なしのそういう心の中に、神の愛・聖霊が宿り、働いて下さるのです。
③ ペトロは、この他にもいろいろの話をして、「邪悪な(今の)この時代から救われなさい」と勧めたようですが、この言葉は、現代に生きる私たちにとっても、忘れてならない勧めであると思います。個人主義・自由主義・自己中心主義の繁茂する現代世界は、恐ろしい自己破滅への道に落ち込みつつあるようですから。余談になりますが、好天に恵まれたこの前の日曜日に、隣の気賀町の「姫様道中」行列を見に行ったついでに、町から一キロ半ほど離れた気賀大橋まで河畔を散歩しましたら、途中に人が歩いて渡るためにかけられた、あの赤い大きな飾りの吊橋が平成元年の竣工で、「澪つくし橋」という名が刻まれているのを発見しました。後で辞書を開いてみましたら、「澪」は船の航行ができる水路を指しており、「澪つくし」は「澪の串」という意味で、船にその水路を知らせるために立てられた杭のことだそうです。都田川にかかるあの赤い大きな橋脚は、水路を知らせるという意味に見立てられているのかも知れません。辞書には「君恋ふる涙のとこにみちぬれば みをつくしとぞ我はなりける」という古今集の和歌も載っていました。この歌では、「澪つくし」は、心の水路を知らせるという意味と、身を尽くすという意味との二つを兼ねているようです。私たちも現代社会の中にあって、神の道を証しするそのような「澪つくし」になりたいものであります。

④ 本日の第二朗読の中で使徒ペトロは、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶ」ことが神の御心に適うことであり、あなた方はそのために召されたのであり、魂の牧者キリストも苦しみを受け、私たちがその後に続くようにと模範を残されたのだ、と説いています。野獣に餌食として狙われ勝ちな羊は、自分独りでは愚かで弱い存在ですが、自己中心に生きるのではなく、神よりの魂の牧者に従って生きるなら安全であり、価値の高い存在になることができます。主の模範に従って苦しみを恐れず、主の導きにつき従って生きましょう。

⑤ 本日の福音は、「良い牧者のたとえ」と言われる話です。「門を通らずに、他の所を乗り越えて来る者は盗人であり、強盗である」という主のお言葉は、主の教会という囲いの中に入っていても、神中心の主イエスの信仰精神に生きていない指導者が、次々と遠慮なく侵入して来るという、悲しい現実について警告していると思います。気をつけましょう。「私は門である」という主のお言葉を考慮しますと、「この門を通らずに入る者」というのは、天の御父の導きに徹底的に従順であろうとなさった主の我なしの御精神に生かされておらず、自己中心の理知的精神で信徒を指導している人たちを指していると思われます。主から「盗人」として厳しく非難されているそういう指導者たちは、主から「盗人」として非難されている指導者たちは、ファリサイ派のように人間理性に訴えて説得しようとするようです。そういうファリサイ派のパン種には警戒し、自分の理知的知識や理解よりも、いつも神の導きに心の眼を向け、神中心の献身的奉仕愛に生きる実践に心がけていましょう。もし自己中心の生き方に死んで心の奥底に神の聖霊を宿しているなら、良い牧者キリストの御声を正しく聞き分け、それに従って行くことができます。

⑥ 復活節の第四主日は「良い牧者の主日」と呼ばれていて、良い牧者・主キリストのお声を聞き分け、それに従う決意を新たにする日とされていますが、同時にその良い牧者の器となって人々を神に導く、司祭・修道者の召命のため祈る「世界召命祈願の日」でもあります。現教皇はこの日に当てて、長いメッセージを出しておられます。このミサ聖祭の中で、司祭・修道者の召命のためにも心を合わせて主に祈りましょう。