2011年5月1日日曜日

説教集A年:2008年3月30日復活節第2主日(三ケ日) 

第1朗読 使徒言行録 2章42~47節
第2朗読 ペトロの手紙1 1章3~9節
福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~31節
 
① 主イエスの復活を記念しお祝いする八日間の締めくくりに当たる本日は、「神の慈しみの主日」と言われています。主の復活は、神が主にお与えになった特別の恵みであるだけではなく、何よりも私たち人類に対する神の大きな慈しみの徴であることを、信ずる各人の心にしっかりと銘記させるためであると思われます。黙示録1章の18節によると、主は使徒ヨハネの上に右手を置いて、「私は死んだ者となったが、今は永遠に生きている。云々」と語っておられますが、私たちもその主のように、この苦しみの世に死んだ後には、神により神と共に永遠に生きるよう召されており、神は主イエスの復活によってそのことを私たちに保証しておられるのだと思います。神は私たち人間を、誤解や悲劇の多いこの儚い苦しみの世に住まわせるために創造なされたのではなく、何よりもご自身の御許で永遠に輝く存在とするために、ご自身に似せて創造なされたのです。私たちの本当の人生はこの世にではなく、死後の復活後に永遠に続くものとしてあるのです。私たちに対する神のこの大きな慈しみに、感謝致しましょう。

② 本日の福音は、主が復活なされた日の夜とその八日後に、弟子たちが鍵をかけて集まっていた家に、主がご出現なさった時のことを伝えています。弟子たちは「ユダヤ人を恐れて」、家の全ての戸に鍵をかけて集まっていたそうですが、もはや死ぬことのないあの世の命に復活なされた主は、ご自身のその復活体を神出鬼没に幾度も出現させ、親しく弟子たちとお語りになったようです。彼らの心が、その度重なる体験を介して、もはや死ぬことのないあの世の命への復活という現実が実際に存在することや、その命が自分たちにも約束されていることを、次第に生き生きと堅く信ずるようになるためであったと思われます。私たちの心は体験によって目覚め、体験によって鍛えられ、堅く立つように造られています。ですから、神の現存や神の愛などに対する信仰も、現実的体験なしにいくら理性が心に説得したとしても、心に根を張ることはできません。しかし、神の働きの不思議を度々体験し始めると、たちまち目覚め、頼もしく成長し始めます。復活なされた主は、そのために幾度も弟子たちにご出現なされたのだと思われます。

③ 本日の第一朗読は、復活の主の度重なるご出現を体験した使徒たちを中心にして生まれた、エルサレムの信徒団の生き方を伝えています。信徒たちは皆心を一つにして、全てのものを共有にし、相互の交わりにも祈りにも熱心であったようですが、「全ての人に恐れが生じた」という言葉も読まれます。どういう恐れでしょうか。察するに、使徒たちを通して次々と不思議を行われる神の現存や働きが身近に痛感されたからかも知れませんが、同時に主が受難死の少し前にお話しになったエルサレム滅亡の時と世の終わりの時が、間近に迫っているという危機感と結ばれた恐れなのではないでしょうか。エルサレムの町は経済的にはまだ繁栄していましたが、現代の多くの国々のように、貧富の格差は際限なく広がり続けていて、ローマ帝国の支配に対する若者たちの不満や政治不信も、次第に深刻になっていたと思われます。主の没後30年余り経った60年代には、現状維持の立場に立つ要人が幾人も暗殺される事件が相次ぎ、初代のエルサレム司教であった使徒小ヤコブが処刑される事件まで発生して、ローマ帝国に反旗を翻したエルサレムの町は70年に滅亡してしまいました。

④ しかし、その2,30年前頃から、エルサレムには社会崩壊の兆しが露わになっていて、一部の住民は危機感と恐れに囚われていたのではないでしょうか。信徒たちが財産を共有にして、続々と入信する貧者たちを積極的に助けたのは、主の御言葉通りにエルサレムが間もなく滅びるのなら、財産は貧者に施して復活後の人生に心を準備することに努めた方が賢明、と考えたからであると思われます。

⑤ 現代の私たちも、ある意味では似たような状況に置かれているように思いますが、いかがでしょうか。先日JR常磐線の荒川沖駅で、ゲーム好きだったと聞く24歳のある男が次々と数人を殺傷し、警察には「捕まえてごらん」と電話したり、捕えられてからも「誰でもいいから、人を殺したかった」などと、遊び感覚で淡々と平気で話しているのをテレビで知った時、私は南山大学での西洋史の講義で、ネロ皇帝について話した言葉を懐かしく思い出しました。ネロ皇帝と聞くと、陰険で残酷な顔をしている人間を考える人が多いかも知れませんが、国宝級の貴重な古い彫刻を展示しているローマのカピトール丘の博物館で私の見たネロ皇帝の彫像は、遊び心で輝いているような顔をしていました。それで私は、「ネロは最初の現代人のようだ」という表現も使いながら、「現代の悪魔は、見たところそれ程悪気のなさそうな遊び感覚の人間を使って、思いがけない恐ろしい不幸を人々に齎そうとしているかも知れない」という風な話をしていました。

⑥ 奥底の心に対する適切な躾や教育に欠如している現代の家庭・学校・社会からは、今後もこのような遊び感覚の危険人間が続出するかも知れません。人目には何事もてきぱきと遣りこなす、有能な真面目人間に見えるかも知れません。そして本人自身も、自分をそれ程悪い人間とは思っていないことでしょう。しかし、それが恐ろしい悪魔の武器となり得るのです。神の導きと助けを願い求めつつ警戒し、賢明に目覚めていましょう。そして「見ないのに信じる人は、幸いである」と使徒トマスにおっしゃった主のお言葉を心に刻みつつ、目には見えなくても、主キリストの現存・神の現存に対する意志的信仰を新たに堅め、神中心の畏れと信頼の内に、日々の生活を営むよう心がけましょう。