2011年4月24日日曜日

説教集A年:2008年3月23日復活の主日(三ケ日) 

第1朗読 使徒言行録 10章34a、37~43節
第2朗読 コロサイの信徒への手紙 3章1~4節
福音朗読 ヨハネによる福音書 20章1節~9節
 
① 本日の第一朗読は、使徒ペトロがカイザリアにいたローマ軍の百人隊長コルネリオとその家族や友人たちに話した説教からの引用です。その周辺事情を少しだけ説明しますと、ユダヤの外港カイザリアにヘロデ大王が建設した宮殿に駐留して、ユダヤを支配下に置いていたローマ総督は、毎年無数のユダヤ人巡礼者がエルサレム神殿に詣でる過越祭の前後には、不測の事態の発生を回避するため、カイザリアのローマ軍を連れてエルサレムのアントニア城に滞在していました。それで、主イエスが受難死を遂げられた時は、百人隊長コルネリオもエルサレムに滞在していたと思われます。その後一週間続くユダヤ教の過越祭が終わってから、彼は再びカイザリアに戻りましたが、聖書によると、ある日の午後3時頃に神の天使が幻の中で彼に現れ、「あなたの祈りと施しは、神の御前にのぼり、覚えられています。さあ、ヨッパに人を遣わして、ペトロと呼ばれているシモンを招きなさい。その人は海辺の皮なめしシモンの家に泊まっています」と告げました。それで私は、このコルネリオが主の受難死やその直後の地震などを見て非常に恐れ、「真にこの人は神の子であった」と言った、百人隊長だったのではないか、と考えています。おそらく彼はこの恐れの内に、神に熱心に祈ったり、貧しい人たちに施しをしたりしていたのだと思います。天使が去ると、コルネリオは二人の僕と一人の信心深い兵卒を呼んで事の次第を語り、彼ら三人をヨッパに派遣しました。

② その翌日のお昼頃、使徒ペトロが屋上で昼の祈りを捧げていると、脱魂状態の内に天から四隅を吊るされて下ろされて来た大きなテント布の上に、地上の穢れた動物や鳥たちが乗せられている幻を三回も見ました。そして毎回「神が清めたものを、清くないなどと言ってはならない」という声を聞きました。その直後に、コルネリオから派遣された三人が到着し、ペトロは百人隊長の招きに応じてカイザリアに行き、主イエスについて自分の目撃したことや主から命じられていることなどを話すのが神の御旨であると考え、数人の信徒たちを連れて、彼らに従って行ったのだと思います。

③ ペトロが、生前に各地を巡り歩きながら神の力によって人々を助け、病人たちを全て癒しておられた主が、十字架刑で殺された三日後に、神によって復活させられ、自分たちと一緒に食事をしたことなどを証しし、「この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが与えられる」と語ると、コルネリオらその話を聞いていた全ての人の上に聖霊が降り、彼らは異言を語ったり、神を讃えたりしました。それでペトロは、自分たちと同じように聖霊の恵みを受けたその人たちに、洗礼の秘跡を授けたのでした。ローマ軍は、ユダヤ教の代表者たちに欺かれて、神の御子を殺害する罪に加担したのではないか、と悩んでいたと思われるコルネリオは、ペトロの話を聞き、ペトロから洗礼の恵みを受けることによって、将来に明るい大きな希望を見出すに至ったのではないでしょうか。

④ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「古いパン種をきれいに取り除きなさい」「パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」と呼びかけています。パン種はパンを膨らませて美味しくするものですが、腐敗を早めるというマイナス面もあります。マタイ福音書16章によると、主は一度弟子たちに「ファリサイ派の人々やサドカイ派の人々のパン種に注意し、警戒しなさい」という言葉で、救う神の働きを記した聖書も律法も、私たちに対する神の大きな愛や呼びかけの立場からではなく、民衆に対する自分たちの社会的優位を固守しようとするような、この世の理知的精神に警戒するよう話しておられます。使徒パウロがここで「古いパン種や悪意と邪悪のパン種」と表現しているパン種も、人間理性中心の利己的精神を指していると思われます。主イエス復活の真実を正しく受け止め、主がわたしたちの心に与えようとしておられる大きな希望と喜びの恵みを豊かにいただくには、私たちもこの世の理知的精神という古いパン種を捨て、幼子のように素直で純粋な信仰心で、神の新しい働きや啓示を受け入れる必要があると思います。まだ信仰の恵みに浴していない人たちのためにもその恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。