2011年4月10日日曜日

説教集A年:2008年3月9日四旬節第5主日(藤沢の修道院で)

第1朗読 出エジプト記 17章3~7節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章1~2、5~8節
福音朗読 ヨハネによる福音書 4章5~42節
 
① 主のご受難ご復活を記念する日がいよいよ間近に近づいて来ました。本日の三つの朗読聖書は、いずれも私たち人間の体を新しい命に復活させる神の霊について語っています。第一朗読は、バビロン捕囚時代に預言者エゼキエルが見た幻の後に続いている話です。この話の前に、主の霊に連れ出された預言者は、ある谷の真ん中に下ろされて、その谷が一面に枯れた骨で覆われている幻を見ています。そして預言者が神から告げられた言葉通りにその骨たちに呼びかけると、神の霊がその骨たちの中に入り、骨たちは繋がって自分の足で立つ無数の人間の大集団になりました。神は、霊によって生き返ったその集団を「イスラエル」としてエゼキエルに紹介しています。このような幻を預言者に示した後に、神は囚われの状態で生きているイスラエルの民に対して、本日の朗読にあるように、「私はお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地に連れて行く」「私がお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」「その時お前たちは、主である私がこれを語り、行ったことを知るようになる」などの話をなさったのです。

② 人祖の罪の穢れを受け継いでいて、死の恐怖の中に生きている私たち現代の人類も、ある意味で囚われの状態に生きているのではないでしょうか。あの世の神の御眼から見れば、この世の大きな暗い墓の中に眠る枯れた骨たちのように見えるかも知れません。しかし、将来に大きな明るい希望をもって、信仰に生きましょう。やがて神がその墓を開いて私たちを引き上げ、私たちを永遠に幸せに生きる地へと導いて下さる時が来ます。神が私たちの体の中に聖霊を吹き込むと、枯れた骨のようであった私たちの体は、もはや死ぬことなく、あの世で永遠に輝いて生きる神の子の体になるのです。それが、神が原初に「私たちに似せて創ろう」と話し合って創造なされた、人間という被造物の本当の姿だと思います。神に似せて創られた私たちの本当の人生も、この世の暗い墓の中にではなく、もはや死ぬことのないあの世の栄光の中で営まれるものなのです。

③ 使徒パウロはローマ書8章のはじめに、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命を齎す霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放してからです」と書いていますが、その同じ8章から引用されたのが、本日の第二朗読です。そこには、「キリストがあなた方の内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。もしイエスを死者の中から復活させた方の霊があなた方の内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなた方の内に宿っているその霊によって、あなた方の死ぬはずの体をも生かして下さるでしょう」とあります。

④ 私たちが今生きているこの世の暗い不安な人生は、あの世の太陽の光を失っており、巨大で神秘な墓の暗闇の中にあるようなものだと思います。人々はそこで蝋燭の灯や電灯などを次々と発明し、身近な処から闇や不安を打ち消して、少しでも明るく楽しく生活しようとしていますが、しかし、人間理性の発明した灯りと神がお創りになった太陽の光とでは、大きく違っています。太陽の光を失って夜の闇に包まれているような処では、遠くの山々や大空の美しさを観賞することも、月や星の美しさを仰ぎ見ることもできません。私たちの心は、内的にはそのような神秘な闇に包まれて、刻々と足早に過ぎ行くこの世の儚い人生を営んでいるのです。意識していなくとも、死の恐怖は絶えず私たちの体に付きまとっています。しかし、主キリストの霊を身の内に宿しているなら、体は罪によって死にまとわれていても、霊はすでにあの世の命に生かされているのであり、やがてキリストの霊が死ぬはずの体をも生かして下さる、というのが使徒パウロの教えだと思います。私たちもこの信仰の内に、希望をもって生き抜きましょう。

⑤ 本日の福音はヨハネ福音11章のほとんど全文で、非常に長いものです。一人の人物についてこれだけ長い記述がなされているのは、新約聖書の中ではラザロだけです。しかもその中で、ラザロは一言も話していませんし、ラザロがどんな人物で、どんな生涯を送った人であるかなどのことは、何も述べられていません。ただラザロが死んだことと、その死をめぐる人々の動き、並びに主イエスによって蘇らせられたことだけが、詳述されているのです。ヨハネがラザロの死と蘇りをこれ程詳しく述べているのは、そこに間近に迫っていた主イエスの受難死と復活に対する、主の基本姿勢の現れを垣間見ていたからなのではないでしょうか。話の中心はラザロにではなく、主イエスの御心にあるのです。

⑥ まず、マルタとマリアから愛する兄ラザロが危篤になっていることを知らされても、主は「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神がそれによって栄光をお受けになるのだ」と話されて、主を殺そうと企んでいたユダヤ人たちを避けて退かれた、ヨルダン川の洗礼者ヨハネが最初に洗礼を授けていた処に、なおも二日間ゆっくりと滞在しておられました。後にラザロの墓を目前にして涙を流されたことから察しますと、人間としての主の御心は、深い悲しみを覚えておられたことでしょう。主は、病人や悩み苦しむ人に対しては、思いやりのある情熱的な人でしたから。しかし、人間をこの世の病苦や死から救い出すことよりも、この機会に、神は罪をお赦し下さるだけではなく、罪の結果である死の支配からも人間を解放し救う方であることを、多くの人たちに公然と立証し、神の栄光をより大きく輝かせることを何よりも重視しておられたのだと思われます。二日の後、主は「もう一度、ユダヤに行こう」とおっしゃって、ラザロの家に向かわれます。弟子たちが「ユダヤ人たちがこの間もあなたを石殺しにしようとしていたのに」と、エルサレムのユダヤ人も多く出入りしているラザロの家に行くことの危険性を指摘しますが、少しもたじろぎません。察するに、主はご自身のお体の内に聖霊の働きとあの世の命を生き生きと感じておられ、この世の命を奪われても神によって護られ、奪われることのないもう一つの命に生き続けることを、人間としても確信しておられたからでしょう。そして主がメシアであることを信じていたラザロの中でも同じ聖霊が働いていることを信じつつ、ご自身の受難死の前に、神による死者の復活が実際にあることを公然と立証しよう、と望まれたのだと思います。

⑦ 主がラザロの墓の前で、「父よ、私の願いを聞き入れて下さって感謝します。云々」と祈られたことから察しますと、主はラザロの家に行く間にも、罪と死に対する神の絶対的権能を多くの人の前に力強く立証するための御導きを、天の御父に願っておられたように思います。こうして罪と死による悪霊の支配を打ち砕く全能の王としての威厳を示しながら、ラザロの家に乗り込んで行かれたのではないでしょうか。マルタに対して、「私は復活であり、命である。私を信ずる者は死んでも生きる」「あなたはこのことを信じるか」と言われた時の主のお姿には、そのような王としての威厳が満ち溢れていたことでしょう。主はその直後、マルタの姉妹マリアとそのそばにいて二人を慰めていたユダヤ人たちが泣いているのをご覧になって、心に憤りを覚え、興奮して「どこに葬ったのか」とお尋ねになりました。この御憤りは、無数の人々を泣き悲しませて止まない、罪と死という悪霊の支配に対する憤りであったと思われます。

⑧ 墓に葬られて四日も経ち、すでに腐り始めていると思われていたラザロの遺体に、主が大声で「ラザロ、出て来なさい」と力強く命令し、蘇らせるという大きな奇跡を目撃したユダヤ人の多くが、主を信じたのを見て動揺した祭司長たちやファリサイ派の人々は、最高法院を招集して協議しています。このことから考えますと、主は宣教活動に失敗して捕らえられ、処刑されたのではなく、全人類の罪を背負って贖いの受難死を遂げることにより、人類が神の国へ昇るのを閉ざしていた死の門を打ち砕くために、王の威厳と権力を保持しつつ、自ら進んで悪の勢力に身を託されたように思われます。この世の観点からは受難死は敗北に見えるでしょうが、あの世の視点では悪の勢力を打ち破って死の門を取り払うのに必要な過程であり、悪霊たちの拠点への一種の進軍であったと思います。ここで「死の門」というのは、死後の人間が神の国に入るのを妨げていた門であって、この世に死ぬ時に霊魂が通るトンネルのことではありません。私たちは遅かれ早かれ皆この世を去らなければなりません。主キリストの贖いの功徳によって、死後には明るい美しい神の支配なさる世界が私たちを待ち受けているのです。大きな感謝の心で、主の受難死を記念する聖週間を迎えましょう。