2011年4月21日木曜日

説教集A年:2008年3月20日聖木曜日(三ケ日)

第1朗読 出エジプト記 12章1~8,11~14節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 11章23~26節
福音朗読 ヨハネによる福音書 13章1~15節
 
① 主の最後の晩餐を記念する今宵のミサ聖祭の第一朗読は、今から3千3百年ほど前に、主なる神がエジプトでモーセとアーロンにお語りになったお言葉であります。それは、太陰暦の国メソポタミアで生まれ育った太祖アブラハム以来の伝統を保持し、月の暦に従って生活していたと思われるイスラエルの民が春の最初の新月を迎えた日であったようです。神はまず彼らに、「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」と命じ、それからこの正月の十日以降になすべきことについて、次々と細かくお命じになりました。昼の時間が、最も長くなった夜の時間に勝って長く成り始める時を、新しい年の初めとしていた太陽暦の国エジプトで、春の太陰暦最初の月を正月とする新しい暦のリズムを導入させたのは、異教の神々の祭日や行事を忘れて神の御言葉中心の新しい生き方へと、イスラエル民族の心を根底から一新させるためであったと思われます。

② 続いて神は、民がエジプトから脱出する直前に起こる出来事や過越の食事の仕方などについて、細かい指示をお与えになりましたが、イスラエルの民はその指示通りに行動して、無事大国エジプトの支配から解放され、自由になることができました。それ以来ユダヤ人たちは、この出来事を記念する年毎の過越祭を最大の祭として、今日もなお敬虔に守り行っています。その祭式は、ある意味でユダヤ民族の宗教的な建国記念ですが、しかし神の御前では、その記念行事は同時にメシアによる人類救済の御業を象徴的に予告し提示しており、その意味でユダヤ人たちは今も過越祭を祝う度に、神の御子メシアによる救いの恵みを受けていると信じます。

③ 2千年前の主イエスは、ご自身を過越の小羊となして受難死を遂げ、この苦しみの世から神の国の自由へと過ぎ越す恵みを、全人類のために神から呼び下すに当たって、ユダヤ人のこの過越祭を利用し、そこに幾つかの新しい要素や変革を導入して、弟子たちと共に最後の晩餐を祝われました。そしてアブラハムの精神を受け継いで神信仰に生きる新しい神の民のため、ミサ聖祭の儀式を制定なさいました。時間空間の制約を超えて、救いの恵みを全人類の上に豊かに呼び下すためであると思います。今宵のミサ聖祭は、主イエスのなされたその救いの御業と限りない御愛に、また新しい契約の血に基づくミサ聖祭のご制定に感謝して、お献げ致しましょう。

④ 今宵の儀式の第二朗読の中で使徒パウロは、「パンを裂く式」と呼ばれていた初代教会のミサ聖祭の中心部分について、ごく簡単に述べていますが、その中にある「私を記念してこのように行いなさい」という主のお言葉は、大切だと思います。今日でも全てのミサ聖祭の中心部で、主のこのお言葉が唱えられますが、パウロもこの朗読箇所の始めに、「私があなた方に伝えたことは、私自身主から受けたものです」と述べているように、この儀式は、救われるべき人間が主導権を取って神に感謝を捧げるために制定したものではなく、救い主ご自身が主導権をとって、時間空間の制約を超え、およそ救われる人類のいるあらゆる時代・あらゆる国で、受難死により過越の小羊として屠り去られたご自身を天の御父に献げ、救いの恵みを豊かに呼び下すために制定なさったのです。

⑤ ですから使徒パウロも書いているように、司式する司祭は、「これは、あなた方のために渡される私の体です」、「これは、私の血の杯、云々」と、主イエスから言うようにと命じられたお言葉を、そのままに唱えるのです。人間主導の単なる記念行事ではなく、救い主が目には見えなくても今ここに現存して、天の御父にご自身を生贄としてお献げする記念行事だからです。キリスト現存のこの信仰を忘れないため、古代教会のミサ奉献文は、聖変化直後の祈りの中に「今ここで」という言葉を入れていました。公会議後の新しいミサ典礼にも、第二と第四奉献文の中に「私たちは今ここに」という祈りが残っていますが、第一と第三奉献文の中では、「ここに」が約されて「今」だけになっています。しかし、主キリストが霊的に今この祭壇に現存して、ご自身を屠られた過越の小羊として天の御父に献げ、私たちの上に救いの恵みを豊かに呼び下して下さるのであることを、堅く信じてこのミサ聖祭をお献げ致しましょう。

⑥ 今宵の福音は、最後の晩餐の直前に主が上着を脱ぎ、大きな手拭いを腰にまとった奴隷のお姿になって、弟子たちの足を洗われた話を伝えています。主は、世にいる弟子たちを極みまで愛され、その徹底的奉仕の愛を彼ら各人の心に行いを介して伝えるために、奴隷の姿で各人の前に跪きその足を洗うという行為をなさったのだと思います。同じ主は晩餐の最中には、ご自身を食物・飲み物となして弟子たちに与え、それを食べること、飲むことをお命じになりました。これも、彼ら各人の体の中にまで入って、内側から一人一人を生かそうとする極みまでの奉仕的愛の表現であると思います。神のみがお出来になる、偉大な奇跡だと思います。主はこのミサ聖祭の中でも、同じ大きな愛をもって現存しておられます。この神秘を堅く信じつつ、今宵の感謝の祭儀を献げましょう。