2011年4月17日日曜日

説教集A年:2008年3月16日受難の主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 50章4~7節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 2章6~11節
音朗読 マタイによる福音書 26章14節~27章66節

① 「枝の主日」とも言われる本日の祭式の始めには、枝を持つ会衆を祝福する祈りがあり、続いて主の受難死の数日前に主が弟子たちを連れてエルサレムに入城なさった時の福音が朗読されました。大勢の群衆が木の枝や自分の服を道に敷いて主キリストの入城を歓迎し、「ダビデの子にホサナ」と熱狂的に叫び続けた時の情景を偲びながら、私たちも枝を手に賛歌を歌いながら、行列して聖堂に入堂したのです。「ホサナ」という言葉は、「今救い給え」という意味だと聞いています。それは、「神を称えよ」という意味の、勝利の喜びに溢れたハレルヤとは異なり、神から派遣された偉大な王メシアに対する、歓迎と願いの叫びであったと思われます。

② ミサ聖祭の第一朗読は、第二イザヤの預言書に記されている四つの「主の僕の歌」の、第三の歌からの引用であります。そこでは「主の僕」すなわちメシアが主なる神のお弟子として、人々からどれ程苦難や辱めを受けても、神の御旨に徹底的に聞き従うお姿が描かれています。「私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けて下さるから、私はそれを嘲りとは思わない」などの預言者の言葉は、主イエスがご受難の時に、実際に体験し、実現させた予言だったのではないでしょうか。

③ としますと、主は激しい虐待と痛みの最中にあっても、内的には少しもひるまず、神から派遣された宇宙万物あらゆるものの王としての権威を堅持しながら、威厳に満ちた静かな御眼差しで、全ての恥と苦しみを耐え忍んでおられたと思います。何物にも屈しない威厳に満ちたその静かな御眼やお姿に触れて、悪霊たちも悪の勢力に与する人々も、ますますいきり立ち、主の威厳を損なうあらゆる悪口を浴びせたり、そのお体の苦痛をいや増すようなことをしたりしたのかも知れません。本日の福音であるマタイ受難記によりますと、ローマ総督の一部の兵士たちは、主を激しく鞭打って傷つけた後に、再び主の衣服をはぎ取って赤い外套を着せ、「王だ」と宣言なされた主の御頭に茨の冠をかぶせたり、右手に葦の棒を持たせてお顔に唾を吐きかけ、その葦の棒で御頭をたたき続けたりしています。祭司長や律法学者、長老たちも主を侮辱しています。しかし、人間としてのまともな心をもっていた人たちは、それらの侮辱や責め苦に静かに耐えておられる主の御眼やお姿に、深い感銘を受けていたのではないでしょうか。本日の福音の最後に述べられているように、百人隊長や一緒に見張りをしていた人たちは、主が息を引き取られた時の地震や、それまでのいろいろな出来事を見て非常に恐れ、「本当に、この人は神の子であった」と話しています。

④ 使徒パウロは本日の第二朗読の中で、主イエスが神と等しい御方でありながら、ご自身を無となして人間となり、しかも十字架の死に至るまで天の御父に従順であったことを称揚しています。私たちも、神によって全てのものの主君・王と立てられている主イエスのこの御模範に倣い、自分の身に誤解や苦難がふりかかる時には、悪霊たちに神の王的権威を感じさせながら、潔く堂々とそれらの苦しみを耐え忍び、多くの人の救いのために神にお献げ致しましょう。そのため日頃から、ご聖体の主と一層深く一致するよう心がけましょう。

⑤ ご聖体の主と一致して生きようとすることは、霊的には真に喜ばしい生き方ですが、しかし、主は一度十字架の聖パウロに、「私を抱擁する者は、誰でも棘を抱擁するのだ」と話しておられます。主を愛し、主と一致して生きようとする者には、悪霊たちからの思わぬ攻撃にさらされ、主が多くの人の救いのため天の御父にお献げになったような無数の小さな棘の苦しみを耐え忍ばなければならないと思います。その決意を固めて本日のミサ聖祭を献げ、恵みを願い求めましょう。