2011年4月3日日曜日

説教集A年:2008年3月2日四旬節第4主日(三ケ日)

第1朗読 サムエル記上 16章1b、6~7、10~13a節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 5章8~14節
福音朗読 ヨハネによる福音書 9章1~41節

① 朝晩はまだ少し寒いですが、よく晴れた日の自然界はすでに春のやわらかな光に包まれて輝いています。本日のミサ聖祭の入祭唱は「神の民よ、喜べ」という言葉で始まり、途中にも「悲しみに沈んでいた者よ、喜べ。云々」という言葉が読まれます。昔ラテン語でミサが唱えられたり歌われたりしていた時には、本日のミサは「Laetareのミサ」、すなわち「喜べのミサ」と言われていました。既に四旬節も半ばを過ぎ、周辺の自然界には日毎に明るい春の色が増して来る時節なので、この日曜日のミサ聖祭は、人々の心に春の喜びと将来に対する明るい希望とを与えるものとされていました。それで教会は本日の三つの朗読聖書を、いずれもこれからの人生に明るい希望と新しい意欲を与えるような話の中から選んでいます。

② 第一の朗読聖書は、預言者サムエルによる少年ダビデの注油の話です。サムエルは神の言葉に従い、オリーブ油を満たした大きな角をもって、ベトレヘムのエッサイの家に行きました。神が「私はその息子たちの中に、王となるべき者を見出した」と言われたので、神のお示しになる息子に注油して、イスラエルの王とするためでした。エッサイは預言者サムエルの言葉に従い、預言者を歓待する食事の前に、自分の七人の息子たちを次々と呼び出して預言者の前を通らせました。その息子たちの中には、人間的に見て容姿も背丈も整っていて、王位に相応しい人ではないかと思われる者もいたようですが、主は密かにサムエルに、「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」とおっしゃって、その七人の中からは誰をもお選びになりませんでした。

③ それでサムエルがエッサイに、「あなたの息子はこれだけですか」と尋ねると、最後にその時羊の群れの番をしていた末の息子ダビデが呼び出されました。まだ羊の群れの番をしているだけのような子供で、とても王位に就くような風格や年齢に達していませんが、「血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」と聖書にあります。主はこの子供を、イスラエルの王としてお選びになりました。それでサムエルは、オリーブ油の入った角を取り出し、親兄弟の見ている前でダビデに注油したのでした。こうして預言者歓待のために用意された食事は、イスラエルの王ダビデの注油を祝う会食となりました。ダビデが実際に王位に就くのはまだ数年ないし十数年先のことですが、しかしその日以来、ダビデは、神の霊によって恐ろしい程の力を発揮する人間に成長し始めました。

④ 主イエスは弟子たちに、「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのだ」「あなた方が行って実を結び、その実がいつまでも残るために」とおっしゃいましたが、主は今、私たちにも同様に話しておられるのではないでしょうか。私たちは皆、主イエスによって選ばれ、洗礼の秘跡を受けた時も堅信の秘跡を受けた時も、頭に祝別されたオリーブ油を塗油してもらいました。私はそれを、主の再臨により世あらたまった後のあの世で、主と共に王位につき、神がお創りになったこの広大な宇宙の万物に呼びかけて神を讃えさせ、万物を指導・統治する使命を受けたことを意味していると信じています。ペトロ前書2:9には、主を信ずるキリスト者たちについて、「あなた方は選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と述べられており、黙示録1:6にも、「私たちを王とし、ご自身の父である神に仕える祭司として下さった方に、栄光と力が世々限りなくありますように」という祈りが、さらに黙示録5: 9~10には「あらゆる民族と国民の中から、ご自分の血で神のために人々を贖われ、彼らを私たちのために神に仕える王、また祭司となさった」という歌が記されているからです。

⑤ 第二バチカン公会議も、聖書の言葉に基づいて、全てのキリスト者は主キリストの普遍的祭司職に参与していると教えていますが、私は、主の祭司職だけではなく、あの世では主の王位にも参与すると考えています。私たちは、例えば毎日曜・大祝日の朝の祈りの中で、「造られたものは皆神を賛美し、代々に神をほめ称えよ」「天の全ての力は神を称えよ。太陽と月は神を賛美し、空の星は神を称えよ」などと祈っていますが、神に似せて創られた王としての使命を自覚しつつ、主キリストと一致して唱えるよう心がけましょう。そうすれば、少年ダビデの内に働いた神の霊は、私たちの中でも、私たちを通して宇宙万物のために働いて下さいます。

⑥ 使徒パウロは第二朗読の中で、「あなた方は以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい。云々」と、私たちにも呼びかけています。四旬節を機に何が主に喜ばれるかを改めて吟味し、実を結ばない利己的人間中心の暗闇の業からは離れて、いつも神の光に照らされ、神の光の子として、注油された少年ダビデのように、神への信頼と明るい希望の内に生きるよう努めましょう。

⑦ 本日の福音は、生まれつきの盲人が、主イエスに唾でこねた土を塗ってもらったその目を、主のお言葉に従って「遣わされた者」という意味のシロアムという池で洗ったら、目が見えるようになったという、奇跡的治癒についての話です。安息日の厳守を強調していたファリサイ派の一部の人たちは、安息日にそんな大きな癒しの業を為した者は「神から来た者ではない」と主張し、目を癒されたその人を自分たちの考えに従わせようとしました。しかし彼は、神よりの人でなければこんな奇跡は成し得ないと考え、「あの方は預言者です」という自分の素直な信仰にひたすら留まり続けて、遂にユダヤ教会から追放されてしまいました。でも、その純真な信仰の故にファリサイ派からの迫害には屈せず、遂に再び主イエスに巡り合い、主を信ずる新しい恵みに浴することができました。神の「光の子」として戴いている私たちも、日々神の働きや神よりの導きに心の眼を向けつつ、神への愛の忠実に生き抜くよう心がけましょう。ダビデのように、恵みから恵みへと高められるようになります。