2011年4月22日金曜日

説教集A年:2008年3月21日聖金曜日(三ケ日) 

第1朗読 イザヤ書 52章13節~53章12節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章14~16節、5章7~9節
福音朗読 ヨハネによる福音書 18章1節~19章42節

① 本日の儀式の第一部「言葉の典礼」の最初に朗読された、バビロン捕囚時代のイザヤの預言は、第二イザヤ書に読まれる四つの「主の僕の歌」の第四のもので一番長いものですが、預言者はここで、その数百年後に実現したメシアの御受難を、あたかも今目前に見ているかのように長々と詳しく描いています。察するに、その時神から示された幻示も、一時間以上にも及ぶ程の詳細なもので、預言者はそれを深い苦しみの内に、しっかりと見届けていたのかも知れません。そうでないと、これほど細かくまた感動的に描写することはできなかったでしょう。
② そしてゴルゴタの丘へと引かれ行く主に伴って行き、3時間近くも主の十字架の下で立ち続けておられた聖母マリアも、かねてから度々黙想しておられたと思われるこの「僕の歌」をあらためて御心に思い起こし、深い御悲しみの内に、その全ての苦しみを主のおん苦しみと合わせて、人類の救いのために神に献げておられたことでしょう。歌にもあるように、メシアは私たち人類の背きや咎のために神の手にかかり、打たれて苦しんでおられるのであり、彼の受けた傷によって人類は癒され、屠り場に引かれ行く小羊のように、メシアが黙々と従って自らを「償いの献げ物」となして死ぬことにより、人類の救いは成し遂げられるのですから。私たちも、主の受難死を間近で目撃しておられた聖母マリアのご心情を偲びつつ、聖母と共に主の御苦しみを心に深く刻み、主に対する感謝の心を新たに致しましょう。
③ 第二朗読のヘブライ書には、「キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いを捧げ、その畏れ敬う態度の故に聞き入れられました。云々」という言葉が読まれます。私たちが子供の頃から聞いているこの世の偉人や人格者たちの多くは、日頃から自分の心をしっかりと統御し押さえつけているために、どんなに恐ろしい誤解や苦難に遭遇しても従容としてそれらに対処し、叫んだり泣いたりしなかったようです。そのように心がけた方が、自分の苦しみを少し軽くし、忍耐し易くできるのだそうですが、主イエスはその人たちとはかなり違って、ご自身の清い御心を押さえつけるようなことはせずに、与えられた苦しみを全てそのままに、情熱的なご自身の清い人間性で受け止め、天の御父に御眼を向けながら、あるがままに耐え忍んでおられたのではないでしょうか。それが時として叫びとなったり涙となったりして、外に溢れ出たのだと思います。
④ 十字架上の主イエスも、最後まで天の御父に御心の御眼を向けながら、徹底的従順の御精神で全てのお苦しみを、私たち人類の救いのためにお献げになったと思われます。その救いの恵みに生かされている私たちも、聖母マリアと共に主の受難死に感謝の心を新たにしつつ、主の御模範に倣って自分に与えられる全ての苦しみを、神の愛の御眼差しに心の眼を向けながら、人類の救いのため喜んで神にお献げ致しましょう。