2011年5月8日日曜日

説教集A年:2008年4月6日復活節第3主日(三ケ日) 

第1朗読 使徒言行録 2章14、22~33節
第2朗読 ペトロの手紙1 1章17~21節
福音朗読 ルカによる福音書 24章13~35節

① 現代の政治も経済も社会も、いろいろと新しい問題を抱えて苦しんでいるようですが、そんな中にあっても、年度始めに新しい顔の人たちを迎えて一緒に散歩したり花見を楽しんだりしていると、人の心は重苦しい嫌な問題は忘れて互いに打ち解け、これまでとは違う新しい生き方に憧れたり、新しい人間関係を求めたりするように思われます。復活なされた主イエスも、そのような人の心に語りかけ、新しい命の道を教えようとしておられるのではないでしょうか。

② 本日の福音は、エルサレムからエマオ村へと下って行く二人の弟子たちに、復活なされた主が生前とは異なるお顔とお姿で伴って歩き、メシアが苦しみを受けた後に復活の栄光に入るはずであることを、聖書に基づいて説明なさった出来事を伝えています。察するに、それも春の、(本日のように)温かいよく晴れた日のことだったのではないでしょうか。その日の朝早くに、数人の婦人たちが香料を携えて、主が葬られた墓を訪ねていますし、その墓が空になっていると婦人たちから知らされて、ペトロとヨハネが走ってその墓を見に行っていますから。若葉が芽を出し花が咲く、新しい若々しい生命の営みが大自然界を冬から春へと蘇らせる、こういう美しい春の日には、部屋の中にだけ籠っていないで、少し外の景色に目をやってみましょう。私たちもそこで、復活の主の隠れた営みに出会うかも知れません。主は美しい自然界を介しても、私たちの心に呼びかけておられるでしょうから。

③ 本日の第一朗読は、復活なされた主が昇天なされて九日程経った五旬祭の日に、聖母や婦人たちや他の使徒たちと共に聖霊降臨の恵みに浴した使徒ペトロが、集まって来た大勢のユダヤ人たちに向って、声を張り上げて大胆に話したペトロの最初の説教です。そこには旧約聖書からの引用もありますが、その話は当時のユダヤ教のファリサイ派教師たちの話とは全く違っています。ファリサイ派の教師たちは、神を私たち人間を遥かに凌ぐ聖なる方として遠くから崇め尊ぶだけで、実際上は神からの啓示に基づく律法を合理的に解説しながらユダヤ民族の宗教教育を担当することだけにほとんど専念し、当時のユダヤ社会に大きな影響力を行使していました。無学な漁師であったペトロたちは、律法についての知識では彼らに全然かないませんが、しかし、主キリストと3年間生活を共にした体験から身に付いた知識については、彼らより遥かに豊かになっており、その神信仰・メシア信仰も、数多くの不思議体験や復活の主キリストとの交わりによって高められ、不屈の強さを帯びていました。その心の中に聖霊が火の舌の形で降臨して下さったのですから、ペトロは火の霊に促されて立ち上がり、声を張り上げて話し始めたのだと思います。

④ その話は、ナザレの人イエスこそ神が派遣なされたメシアであるという証言と、ユダヤ人たちによってローマ総督に渡され十字架刑を受けて殺されても、神によって復活させられ、神の右に上げられたイエスは、約束された聖霊を神から受けて私たちの上に注いで下さったのだという証言との、二つに纏めてよいと思います。ペトロは主イエスのお言葉に基づいて、「私たちは皆、そのことの証人です」と断言していますが、この言葉は、現代の私たちにとっても大切だと思います。

⑤ 使徒時代の教会は、何よりも自分たちの内に現存しておられる神の働き・神の導きに心の眼を向けており、神の御旨中心に動いていました。既に信徒団と言われるようなグループは各地に形成され始めていましたが、その組織も規制もまだ柔軟で流動的であり、使徒たちも信徒たちも、自分たちの内に現存しておられる神の働き・神の御旨に真っ先に心の眼を向けていたと思われます。主キリストが創立なされた教会は、大きな社会的集団になるにつれて組織や規制を固めて、本来の柔軟さや流動性を失い兼ねない存在になるおそれが生じて来ますが、使徒ペトロは、本日の第二朗読の中で、「この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」と述べています。この地上の教会は、仮住まいする間の信仰者相互の団結と信仰伝達の手段であるに過ぎません。主が創立なされた教会の信仰精神や組織を大切にしつつも、主イエスを断罪したファリサイ派のパン種に警戒し、教会の外的規制の順守だけに囚われることなく、何よりも神の御旨を中心にして生きること、そして自分の信仰体験に基づいて証言することに心がけましょう。ファリサイ派教師たちのように、何かの理知的な教理や規則を教えることに専念するのではなく、使徒たちのように、体験に基づく自分の信仰を人々に力強く証しすることが大切なのです。初代教会のこの信仰精神が、現代のキリスト者たちの間には、残念ながらあまりにも衰微してしまっているのではないでしょうか。

⑥ 人類社会の政治的・経済的・文化的グローバリズムの時代を迎えて、現代のカトリック教会は、近い将来大きな危機を迎えることになるかも知れません。その時、使徒時代の教会が持っていた神の御旨中心の柔軟で流動的な信仰精神が、教会をその危機から救い出すと思います。本日の第二朗読の最後に使徒ペトロが「あなた方の信仰と希望は神にかかっているのです」と述べている言葉も、心に銘記して置きましょう。ここで、「神にかかっている」と邦訳されている言葉は、「神に基づく」と「神に向かっている」との両面を持つような言葉だ、と聞いています。とにかくこれからの時代は、各人の理知的思考中心にではなく、何よりも私たちの間に現存しておられる神の働きに信仰と従順の精神でしっかりと結ばれて生きよう、と努めるべき時代であると思います。