2012年5月13日日曜日

説教集B年:2009年復活節第6主日(三ケ日)


朗読聖書: . 使徒 10: 25~26, 34~35, 44~48.     . ヨハネ第一 4: 7~10.  
   . ヨハネ福音 15: 9~17.

   本日の第一朗読には、「ペトロが話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者でペトロと一緒に来た人たちは皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て大いに驚いた。異邦人が異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペトロは、」「イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた」という言葉が読まれます。聖書のこの箇所を読む時、私はいつもマタイ福音書に読まれる洗礼者ヨハネの言葉、「私は水によって悔い改めの洗礼を授けるが、私の後においでになる方は」「聖霊と火によってあなた方に洗礼をお授けになる」という言葉を思い出します。マルコ福音書にもルカ福音書にも、同様に述べられています。カトリック教会で授けられる秘跡としての水の洗礼だけを重視して、その洗礼を受けないものは皆救われない、聖霊はその洗礼を受けた霊魂の中でのみお働きになる、などと考えてはなりません。仏教からの改宗者である私の体験を振り返ってみても、神は私が受洗する前にも私の心の中に働いて下さった、とはっきりと言うことができますし、そのように確信しています。そして私が多治見修道院に入ってからも、中世の聖トマスや聖ボナベントゥーラの教えに基づいて、受洗者の心は水の洗礼を受ける前に、まず聖霊の洗礼を受ける、とドイツ人宣教師たちから教わりました。

   ところで、30数年前に私から受洗したある信者を先日訪問したら、数年前から原始福音の信仰証しの月間誌『生命之光』を愛読していて、自分もその人たちの幕屋集会に出席してみようか、と迷ったことがあったという話を耳にしました。この月刊誌『生命之光』は、終戦直後頃の熊本県で神の霊の働きを生き生きと体験なさった手島郁郎氏が、1948101日に創刊した小冊子であります。カトリック・プロテスタントを問わず現実のキリスト教があまりにも外的人間的形に執着して、聖霊の自由な働きを阻害していることを嘆く手島氏が、無教会主義の立場に立って主キリストの原始福音を再興しようとしていることに私は大いに賛同し、私も十数年前から、私の許へ無償で送られて来るその月刊誌『生命之光』を愛読しています。そして10年ほど前からは、手島郁郎氏の二男で、日本人初のヘブライ大学博士号を取得なされた鎌倉在住の手島佑郎氏と親しくしています。私は1973年に帰天なされた手島郁郎氏の中に、またその信奉者たちの中に神の聖霊、主キリストの霊が確かに働いて数多くの様々な奇跡的御業や治癒をなさったこと、そして今もなさるということを、事実として確信しています。教会堂を持たないその人たちの個人宅を拠点とする、いわゆる「幕屋礼拝」は今や全国的に広まり、浜松にも豊橋にも拠点を持っており、アメリカにも九つの拠点を持って広まっています。ブラジル・メキシコ・パラグアイ・台湾・インドネシアや、ヨーロッパ・イスラエルなどにも拠点を設けて、神の霊の奇跡的働きに憧れる現代人たちの間に広まっています。
   しかし私が、そして私たちカトリック者が、その人たちの集会に参加して神の霊の奇跡的働きを祈り求めるのは、神の御旨ではないように思います。神は私たちにもっと大事な使命、すなわち主キリストが残された愛の福音を体現しつつ全人類のためにミサ聖祭をささげること、そして主キリストの御命・霊的体を秘跡によってこの世にしっかりと現存させること、という使命を託しておられるからです。幕屋礼拝に出席している人たちの中での聖霊の働きの基盤は、主キリストが私たちの間でお献げになるミサ聖祭の秘跡であると信じます。ですから私たちは、直接その人たちの集会に出席しなくても、ミサ聖祭のいけにえや祈りに深く参与することにより、その人たちの中での聖霊の働きに寄与しているのです。同じことは、他宗教の敬虔な信仰者たちの生活についても、この世の政治や福祉事業・医療活動・救済活動などについても言うことができると思います。救いや助けを必要としている無数の人たちの声に耳を傾けつつも、真っ先にミサ聖祭と祈りに励むことにより、聖霊の働きに協力するのが、神から受けた私たち修道者の使命だと信じます。

   本日の第二朗読は、主の新しい愛の掟の実践を力説する、使徒ヨハネの第一書簡の中心部分と称してもよいと思います。この書簡がしたためられた背景には、全てを人間理性によって理知的に解釈しようとした、当時の知識人たちの動きがあったと思われます。ヨハネはそれに対して、この書簡の第4章の始めに、そういうこの世の思想的立場に立って主イエスの受肉を軽視する人々を「偽預言者」、「反キリスト」、「世から出た者たち」として退け、神から出たものでない「迷いの霊」を見分けることを説いてます。そして私たち「神から出た者たちは、既に彼らに打ち勝っている」のだという信仰に堅く立って、只今ここで朗読されたように、第47節から「愛する者たちよ、互いに愛し合いましょう。云々」と、美しい愛の讃歌を綴っているのです。神は愛であり、神の愛は、神がその御独り子を世に遣わして私たちを贖い、私たちが彼によって生きるようにして下さったことによって明らかにされたもので、その愛は私たちこの世の人間からのものではないとするこの讃歌を、ゆっくりと味わってみましょう。私たちの存在が徹頭徹尾温かい神の愛に包まれ、抱かれているように感じられて来ることでしょう。私たち修道者は、カトリック教会の豊かな伝統の中に保たれている神のこのような働きをしっかりと身につけ、現代世界の中でも暗躍して止まない「偽預言者」、「反キリスト」、「迷いの霊」などを正しく見分けて、退ける使命も持っていると思います。そういうカトリック教会2千年の伝統を知らない、善意ある無数の幕屋礼拝参加者たちのためにも、復活の主キリストの光を高く掲げて、世の闇を退けるよう努めましょう。

   復活節第6主日の本日は、毎年カトリック教会で「世界広報の日」としてされています。現代世界で大きな影響力を行使しているマスコミ関係者たちのためにも、神に照らしと導きの恵みを願い求めて、本日のミサ聖祭をお献げしたいと思います。善意あるマスコミ関係者は大勢いますが、現代世界は極度に多様化していて、何が善、何が悪かをその時その時の具体的局面で正しく識別することは非常に難しくなっていると思います。神の霊がその人たちの心をも内面から照らし導いて下さるよう、ミサ聖祭を捧げて祈りましょう。