2012年5月20日日曜日

説教集B年:2009年主の昇天(三ケ日)



朗読聖書: . 使徒 1: 1~11.  
       . エフェソ 4: 1~13.  
   . マルコ福音 16: 15~20.
   本日の第一朗読には、もはや死ぬことのない永遠の命に復活なされた主イエスは、40日間にわたって度々使徒たちに出現し、神の国についてお語りになったばかりでなく、彼らと一緒に食事をしたりして数多くの証拠を示しながら、実際に神出鬼没のあの世の命があること、そして主がその命に今も生きておられることを証しました。それは、本日の朗読にもあるように、彼らが「地の果てに至るまで」主の証人となり、大きな確信と希望をもって神の国の命に生きて見せ、その生き方を世界の人々に広めるためであったと思います。その40日間の最後頃、主は彼らと一緒に食事をしておられた時、エルサレムを離れないで、あなた方が私から聞いた父の約束を待っているように、とお命じになりました。「間もなく聖霊によって洗礼を授けられるから」と。

   主のこのお言葉で将来に明るい希望を抱くに至った彼らは、その後おそらくオリーブ山の上に集められた時、「主よ、イスラエルのために王国を復興なさるのは、この時ですか」と、まだ古い現世的メシア像に囚われているような質問をしました。しかし主は、「父が御自らの権威をもってお定めになった時期は、あなた方の知るところではない」とその質問を退け、「聖霊があなた方に降る時、あなた方は力を受けるであろう。云々」と、彼らがこれからは主の証人としての使命に生きるべきことを告げ、話し終えると、彼らの見ている前で天に上げられて行き、雲に隠れてしまいました。

   このご昇天の時の主のお姿は、思うにそれまでとは多少違って、天上の威光と喜びに輝いているように見えたのではないでしょうか。それで弟子たちは、主のそのお姿を追い求めて、いつまでも天を見詰めていたのだと思います。するとそこに、白衣の人の姿で二位の天使が彼らの側に現れ、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなた方から離れて天にあげられたイエスは、天に昇るのをあなた方が見たのと同じ有様で、また来るであろう」と告げました。天使たちのこの言葉は、今の世に生きる私たちにとっても忘れてならない言葉だと思います。すでに過ぎ去った過去の主のお姿だけを慕い求めるのではなく、激動する今の世の悩んでいる人類社会の中にも密かに受肉し、隠れて現存しておられる主の新しいお姿に対する心のセンスを磨きつつ、また主の栄光の再臨を待望しつつ、大きな明るい希望の内に神の国の証し人として生きるよう、私たちも神から求められているのではないでしょうか。復活なされた主は、私たちの過去におられるよりも、むしろいつも私たちの前に、私たちの未来に私たちを待っておられるのだと信じます。主に対する愛と信仰を新たにしながら、その主の現存や働きについて証しする人になるよう、主は私たちをも招いておられるように思います

   主は山上の説教の中で、「隠れたことをご覧になるあなたの父は報いて下さる」だの、「隠れた所にお出でになるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いて下さる」などと、「隠れた」という言葉を繰り返しながら天の御父について話しておられますが、思うにこれは、人間としての主の常日頃の実践から、ごく自然にお口から出た表現ではないでしょうか。私は父なる神も、復活の主ご自身も、聖霊も、いつも私たちの日常茶飯事に伴っておられ、人目に隠れたごく小さな行いを、隠れた所からご覧になっておられるように感じています。と申しますのは、私が何気なく自由になした些細な奉仕や親切などが、後になって見ると不思議に神に喜ばれ、神によって報いられているように覚える、小さな成功や巡り合わせなどの喜びを、数多く体験しているからです。人間的社会的には義務でも何でもない、社会と自然界に対する小さな自由な奉仕や親切を、あの世の神に心の眼を向けながら実践してみましょう。復活の主も、人目に隠れたそういう小さな実践を特別の関心をもって見ておられ、事ある毎にその自由な実践に報いて下さるように思います。そしてこういう体験の蓄積によって、あの世の神に対する信仰も地に着いたものとなり、祈りにも熱がこもるようになります。主は私たちの心が、復活なされた主の現存や働きについてのこのような体験に基づく証し人になることを、お望みなのではないでしょうか。私たちも現代人に対して、主イエスの復活の証し人になることができます。

   本日の第二朗読で使徒パウロは、「愛をもって互いに忍耐し、平和の絆に結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」などと勧め、最後に「私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するのです」と述べています。その背後には、使徒が本日の朗読箇所でも書いているように、私たちは皆一つの「キリストの体を造り上げて行く」のだ、という思想があると思います。以前にも申したことですが、一つのキリストの体になるということは、現代風に表現するなら、各人が「キリストの体の細胞」になること、そして頭である主キリストからの指令に従い、主の愛の生命力に内面から生かされ導かれて生活しよう、と努めることを意味していると思います。2千年前のユダヤには、神に喜ばれ受け入れられるため、競うようにして神の掟を守り、神のため宗教のために何かをしよう、週に2回も断食しようなどと励んでいた、ファリサイ派の宗教者たちが活躍していました。人間的には、その人たちは日々神のための宗教的善意と熱心に生きていたと思います。しかし、主はその人たちのその生き方を「ファリサイ派のパンだね」と呼んで、それに警戒するよう弟子たちに警告なさいました。キリストの体のメンバーには、各人の人間的熱意中心のそんな生き方に死ぬこと、そしてキリストの精神に生きること、キリストの霊に徹底的に従う生き方に転向することが求められているのだと思います。この観点から使徒パウロの教えを理解し、心に銘記致しましょう。今年は特に、「パウロ年」でもありますから。

   私たちがそのようにして主キリストの精神に生きる時、主が実際に私たちの中で働いて下さるのを、日々小刻みに体験するようになると信じます。本日の福音にあるような、「毒を飲んでも害を受けず、病人に手を置けば治る」などの大きな奇跡は体験しないとしても。悪魔の働きが益々活発になって来ているように思われる今の社会で、不安におびえる人々に復活の主の力と働きを、自分の体験に基づいて効果的に証しすることはできると思います。....