2012年5月6日日曜日

説教集B年:2009年復活節第5主日(三ケ日)


朗読聖書: . 使徒 9: 26~31.   Ⅱ. ヨハネ第一 3: 18~24.  
  . ヨハネ福音 15: 1~8.
本日の第一朗読は、ダマスコ途上で復活の主に出会って改心したサウロについての話ですが、そのサウロがダマスコの諸会堂でユダヤ人たちに、ナザレのイエスがメシアであることを力強く論証していましたら、驚いた一部のユダヤ人たちがサウロを殺そうと陰謀を企んだので、サウロはキリスト者たちの助けを得て夜に窓から吊り下ろされて逃れ、エルサレムに舞い戻ったのでした。そして本日の朗読箇所にあるように、主の弟子たちの仲間に加わろうとしましたが、数週間前にステファノをはじめ多くの信者を迫害したサウロを、エルサレムの信徒団は主の弟子と認めようとはしなかったようです。著名なラビ・ガマリエルの下で学んだ律法学士のサウロは、巧みな弁舌で人々を欺く恐れのある人間と思われたでしょう。事実、彼はエルサレムで大祭司たちを動かしてキリスト者迫害を盛んにした張本人でもあったのですから。無学な庶民層出身の弟子たちがサウロを警戒したのも、人間的にはよく理解できます。しかし、そういう人間的心情を中心にして、神のなさった救いの御業を受け止めたり批判したりしていますと、教会の中での神の働きや超自然の恵みを阻害し、教会内に若々しい広い温かい愛と希望の精神を失わせて、下手をすると、教会を冷たいファリサイ的精神の温床にして行く恐れがあります。
エルサレム信徒団のそんな雰囲気に抗して、キプロス島出身でギリシャ語に堪能な教養人バルナバは、聖書にも「持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足元に置いた」「立派な人物で、聖霊と信仰に満ちていた」と述べられていますが、人の心を正しく見抜く能力にも恵まれていたようで、サウロを使徒たちの所に連れて来て、彼が実際に復活の主に出会って改心し、ダマスコで主イエスの名によって大胆に宣教したことなどを説明しました。それで、サウロはエルサレムにいる使徒たちと自由に交際し、主の名によってギリシャ語を話すユダヤ人たちに宣教したり、彼らと議論したりし始めたようです。自分が知らずに犯した大きな過失を、償おうとしていたのだと思います。しかし、ギリシャ語を話すユダヤ人たちの中にはそのサウロを殺害しようとする動きも起こり、それを知ったギリシャ語を話すキリスト者たちは、彼を匿まって密かに港町カイサリアに降り、サウロをそこからその生まれ故郷である、今のトルコ半島西部の都市タルソスへ船出させました。
こうして、ギリシャ語を話すディアスポラ出身のユダヤ人改宗者、ステファノやサウロたちをめぐる出来事で、一時は大きな揺さぶりをかけられたエルサレム教会は、その後は平穏にユダヤ・ガリラヤ・サマリアの全地方でゆっくりと発展し、信徒数を増やしていったようです。しかし、この時期になるとエルサレム教会内には主の復活直後頃の大胆な証し人の精神が急速に弱まり、使徒ペトロもヨハネも、もうユダヤ教指導者たちをメシア殺しの罪で糾弾しなくなり、むしろユダヤ教との対立を緩和するため、ファリサイ派が重視する律法遵守をできる限りで尊重しながら、主イエスに対する愛と信仰を静かに広めていたように思われます。ユダヤ教の大法院も、ラビ・ガマリエルの言葉に従って、彼らがそのように努めている限りは、敢えて新しいキリスト教者を迫害しようとしなかったのだと思います。しかし、やがてバルナバもエルサレムを去り、タルソスからサウロ、すなわち後の使徒パウロを導き出して、一緒に伝道旅行を始めた頃からは、律法尊重のエルサレム教会の中にファリサイ派から改宗した人たちが何人も入って来て、キリスト教会をユダヤ教に引き戻そうとし始めたようで、この人たちが後年全てのキリスト者に割礼を受けさせようとして、使徒パウロを悩ましています。
本日の第二朗読には、「神の掟を守る人は神の内にいつも留まり、神もその人の内に留まって下さいます」という言葉が読まれますが、ここに言われている「神の掟」は、律法のことではありません。主が最後の晩餐の時お与えになった新しい掟、すなわち「私が愛したように互いに愛し合いなさい」という愛の掟を指しています。使徒ヨハネは本日の箇所で、「言葉や口先ではなく、行いをもって誠実に愛し合いましょう」と呼びかけ、そうすれば「神の御前で安心できます」「神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でも叶えられます」などと説いています。これは、長年にわたるご自身の体験からの述懐であると思います。多くの聖人たちも同様の言葉を残していますし、「神の愛の聖者」聖ベルナルドも、同様の述懐をなしています。私たちも聖人たちの模範に倣って、日々小さな事柄に至るまで、神の愛に生きる実践に心がけましょう。
特に日常茶飯事の中で出会う小さな物事の背後に、いつも信仰の眼で主キリストや神の現存を眺め、神のお望みに対する忠実と従順に努めましょう。そうしていますと、不思議に神はいつも私に伴っておられ、この小さな事柄もちゃんとご覧になっておられる、そして必要な時にはいつも間に合って助けて下さる、という体験を数多く重ねるようになります。そして神現存の信仰が心に深く根を下ろし、祈りにも心の熱がこもるようになります。400年前頃の日本のキリシタン殉教者たちが、聖書についてもキリスト教の教理についても、現代の私たちより遥かに少ししか知らなかったのに、どんな恐ろしい迫害にもたじろがずに雄々しく立ち向かうことができたのは、日々このような神信仰・神体験に心が生かされ支えられていたためであると思われます。私たちも、キリシタンたちの日頃の生き方に見習うよう心がけましょう。
本日の福音の中で、主が「私は幹であって、あなた方は枝である」とおっしゃったのでないことは、注目に値します。主はご自身を、根も幹も枝も実も含む「ぶどうの木」と表現しておられるのです。枝の外にある幹ではなく、枝の中にもその命が流れている植物全体を「ぶどうの木」と表現しておられるのです。「人が私に繋がっており私もその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」というお言葉から察しますと、ここで「繋がっている」(原文では「留まる」) という言葉は、単に外的に繋がっていることではなく、もっと内的に主との命の交わりに参与していること、主の御精神に結ばれ生かされていることを意味していると思います。ですから本日の福音の中で主は、「私に繋がっていなさい」と願うように話しておられ、私に繋がっていないなら、(たとい外的には繋がっていても) 御父によって取り除かれ、外に捨てられて枯れる、そして火に投げ入れられて焼かれてしまう、などと警告しておられます。そして「私に繋がっており、私の言葉があなた方の内に留まっているならば、望むものを何でも願いなさい」と勧めてもおられます。主のご説明によると、その人は願うことが全て叶えられて豊かに実を結ぶ主の弟子となり、天の御父もそれによって栄光をお受けになるのです。しかし、そのためには枝は枝、幹は幹と分けずに、枝も幹も皆主キリストの一つの体と考え、何事においても主のお導きに従い、主の従順心や霊的力に生かされつつ、枝としての働きを為すよう努める必要があると思います。
今年の1月に司祭叙階50周年の記念祝賀をしたのを契機に、私のこれまでの人生や修道生活、司祭生活を振り返ってみますと、この道に召し出されて本当に良かった、幸せだったと神に感謝することが山ほどあり、回り灯篭のように様々の懐かしい思い出が次々と心に去来します。しかし、それらの思い出に交じって、神からこんなに素晴らしい道へと召されたのに、そこから次々と脱落して行った同僚や後輩たちのことも思い出され、心を痛めます。なぜ去って行ったのだろうと私なりに振り返ってみますと、その外的具体的理由は各人各様でよく知りませんが、しかし、多くの人には一つ共通して見られる原因があったように見えます。それは、各人の個性や自由を重視する戦後教育のマイナス面の影響を受けて、自分中心に「自分にとって」という立場で自分の修道生活や司祭生活を見ており、また生きていたように思われることです。主キリストは幹、自分は枝と分けて考え、その幹から必要な養分を貰いながら、神のために自分で実を結ぼうとしていたように思われる言動が多かったように見えます。ですから外的人間的には十分恵まれた修道生活をしていても、自分は不当に束縛されている、上長や同僚たちに十分に評価されていない、自分とは見解の違う人が多い、それとなく監視されているなどという、自然的人間的次元での不満が少なく無かったのではないかと思いやられます。人間の心は皆「夢」を必要としていますが、自分中心の立場で現実の修道生活・司祭生活を眺める時、不満を感じてストレスを蓄積することが多かったのかも知れません。自分中心の立場に引きこもって、そんな苦しみを味わった人たちには同情もしますが、しかし、真に残念でなりません。
それに比べると、戦争中に小学校で我なしの軍国主義教育を受けた私は、戦後間もなくカトリック教会で受洗して多治見修道院に入り、自分に与えられる苦楽を「神よりのもの」と受け止め、いつも我なしの精神で神に心の眼を向けながら、素直にそれに従っていました。この生き方が神のお気に召して、私は度々弱さからの罪や小さな規則違反を重ねながらも、不思議に神の恵みと力に支えられつつ、ここまで本当に仕合わせに召命の道を歩むことができたのだと思います。召命の道を歩ませるものは、神の御旨中心主義の従順精神だと、あらためて痛感しています。主キリストも聖書によると、己を捨て、父なる神の御旨に死に至るまで従われたとあります。主キリストのこの精神で生きることが、葡萄の木であられる主と内的に堅く結ばれて豊かな実を結び、修道的召命の道を喜びと大きな仕合わせの内に最後まで忠実に生き抜く秘訣だと思います。私は自分の来し方を振り返る時、そのような思いを深くしていますが、いかがなものでしょうか。