2012年4月29日日曜日

説教集B年:2009年復活節第4主日(三ケ日)


朗読聖書: . 使徒 4: 8~12.   Ⅱ. ヨハネ第一 3: 1~2.  
  . ヨハネ福音 10: 11~18.
本日の第一朗読は、生来足の不自由な人を癒して民衆の注目を浴び、ソロモンの回廊で、人々に悔い改めて神に立ち帰るよう呼びかける説教をしていたペトロとヨハネが、神殿の守衛長たちに捕らえられて朝まで拘留され、翌日大法院に引き出されて、「お前たちは何の権威によって、あのようなことをしたのか」と尋問された時のペトロの話です。ガリラヤの無学な漁夫でしかなかった二人は、人間的にはこの世の権力やユダヤ教指導者たちの社会的権威に対抗できるものは何も持っていません。しかし、主キリストの弟子として召され、3年間主に伴っていて見聞した体験から得た大きな強い確信に生かされていました。それは、十字架刑によって殺されたナザレのイエスが真のメシアで、もはや死ぬことのない霊の命に神によって復活し、今も自分たちの内にあって、人類の救いのために働いておられるという確信であります。ですからペトロは、聖霊に満たされて恐れずにそのことを公言し、「他の誰によっても救いは得られません」と断言しました。この世の権力や社会的権威はなくても、その言葉にはあの世の神の権威がこもっていたと思われます。彼らによって癒された人もその側に立っていたので、議員たちは皆驚き、「返す言葉もなかった」と記されています。
各種マスコミからのあまりにも多くの情報や多様の見解が大河の洪水のように氾濫し、今の世の思想的海流に弄ばれて自分の人生に生き甲斐を見出せずにいる現代人たちにも、体験に基づくこのような確信をもって、私たちの間に隠れて現存し救いのために働いておられる復活の主キリストについて語る、信仰者・伝道者が必要なのではないでしょうか。心をわって忌憚なく話し合うことのできる友人や知人、家族にも恵まれず、内的には全く孤独になって、自分の人生の意味や生き甲斐を模索したり諦めたり、詰らない遊びや酒などでうさばらしをしている日本人の多いことを思うと、そんな必要性を痛感させられます。今から30数年前の70年代前半、新発田の中学で私の一年下の知人が、名古屋近郊の小さな建築会社で働いていて、クレーン車などを運用する技師でしたが、アルコール依存症に打ち勝てずに自殺したことがあります。大きな酒屋の二男に生まれ大酒呑みだったようですが、最後頃はあまりにもひどいアルコール依存症のため、妻子にも親族にも見捨てられ孤独だったようです。本人からの電話に呼ばれて私が訪ねて行き、数十年ぶりに会って、救急車で病院に運んでもらい、私が保証人になって入院させてもらったのですが、本人はその時私に、「酒はいくら飲んでも楽しくない。しかし、飲まないと苦しくて何もできない。生きていることもできない。だから薬として飲むのだ」などと話していました。薬は毒で毒を消す物ですから、適量を超すといつも有毒です。そんな薬のような嗜好品や遊びで日々のストレスを解消し、その害を受けている人たちが現代には多いのではないでしょうか。もっと神様の方に心の眼を開くなら、もっと有益な心の薬が与えられるのに、と残念でなりません。
しかし、目前の事態が絶望的に見えても、ちゃんと姿勢を真っ直ぐにし、神に心の眼を向けて全てをお任せしつつ、神のお導きに徹底的に従う心を新たにしていますと、不思議に神の霊が働いて道が開けて来るものです。私は小刻みにそんなことを幾度も体験しています。戦争中の小学校で学んでいた時、よく「健全な体に健全な精神が宿る」という言葉を聞かされました。そして健全な体とは、何よりもまず姿勢を真っ直ぐに正しくすることと教わりました。戦後カトリックに改宗してからの私の体験を回顧しますと、正しい姿勢には健全な精神が宿るだけではなく、神の霊もよく働いて下さるように思います。年齢が進んで高齢者のお仲間になった私は、時々物を紛失するという経験をしていますが、いくら探してもなかなか見つけない時には、すぐに神に心の眼を向け、姿勢を正して委ねと希望の心を新たにして祈ります。すると不思議に新しいヒントが心に浮かんだり、珍しいことに出会ったりして、その紛失物を見つけます。先週もそのようなことを二度経験しました。
本日の第二朗読の中で使徒ヨハネは、「世が私たちを知らないのは、御父を知っていないからです」と述べていますが、ではどうしたら、天の御父を知るようになるのでしょうか。福音に読まれる、「翻って幼子のようにならなければ天の国には入れない」(マタイ18:3) だの、「智者や賢者に隠して、幼子たちに現して下さいました」(マタイ11:25) などの主のお言葉から察しますと、何でも自分中心・人間中心に理解し利用しようとする利己的計らいの心を捨てて、聖母マリアや聖ヨゼフのように神の僕・婢となって、我なしの心で神よりのものを謙虚に受け入れ、それに従おうと努めるなら、その実践を通して、次第に天の御父の導きや助けを知るようになるのではないでしょうか。私たちはとかく、自分の目で見、手で触れる経験的現実を基盤にして、政治も社会も神よりのものも判断し勝ちですが、神に対する真の信仰は、そのような心の中では成長せず、神のお言葉や神のなされる救いの御業に赤子のように全く自分を委ね切って、そのお言葉やその御業を中心にする立場、すなわち神の立場から自分やこの世の現実を顧みる逆転の生き方の中で成長し、信仰も神の恵みも根を張り実を結ぶのだと思われます。私たちは皆洗礼によって神の子として頂いたのです。神の子としての感謝とお任せの心で、日々喜んで生きる実践に励みましょう。そうすれば、私たちが心に宿している神の子の命がゆっくりと育って来て、自分が実際に神の子として神から愛されていることを、次第に体験し確信するようになります。私たちの受けた信仰とその喜びを深めるものは、祈りや奉仕的働きの量ではなく、神から日々実際に見守られ導かれているという、小さな体験とその自覚の量だと思います。それが、今の世に真の生き甲斐と喜びを見出す生き方ではないでしょうか。
ご存じのように良い羊飼いについての主の話が読まれる復活節第四主日は、カトリック教会において「世界召命祈願の日」とされていて、毎年全世界の教会は、司祭や修道者として神に仕える人が多くなるよう神に祈りを捧げています。私たちは毎月の第一月曜日に、司祭・修道者の召命のため特別にミサ聖祭を献げて祈っていますが、それに加えて本日のミサ聖祭もその目的のために献げますので、全世界の教会と心を合わせ、相応しい心の司祭・修道者の増加のため、神に恵みと助けを願い求めましょう。本日の第一朗読に登場した使徒ペトロのように、日々主と共に生きることによって培われる確信と聖霊に満たされて、生き、働き、語る司祭・修道者が一人でも多くなるよう、神の特別の導きと助けを祈り求めましょう。