2012年4月6日金曜日

説教集B年:2009年聖金曜日(三ケ日)


朗読聖書:
. イザヤ 52:13 ~ 53:12.
. ヘブライ 4:14~16, 5:7~9.
. ヨハネ福音 18: 1~19, 42.
毎年聖週間を迎える頃になると、懐かしく思い出すことがあります。それは、19世紀後半に北ドイツのミュンスター教区に属していたカタリナ・エンメリッヒという敬虔な視幻者が、主イエスと聖母マリアのご生涯について詳細に見せてもらった幻のことであります。この幻は、確かクレメンス・ブレンターノという詩人が、本人に細かく語ってもらいながら書き集め、その断片的物語を後で整理してかなり分厚い2冊のドイツ語本にまとめ、出版しています。当時のヨーロッパでは理知的な聖書学が盛んで、その学説や見解に真っ向から対立するこのような著作は厳しく批判され、相手にされなかったようですが、神言会の創立者がミュンスター教区の出身者であったためか、一部の神言会員の間ではこの著作は愛読されていたようです。支那事変の初期に召集されて中国に渡った東京本所教会信徒の坂井兵吉という医師が、現地で親しくなった神言会のドイツ人宣教師リタース神父からドイツ語のこの著書をもらい、そのうち主の受難死の部分を戦争中に邦訳し、『吾が主の御受難』と題して戦後に出版した本があります。
私はその訳書を神学生時代に読んだだけですが、そのさまざまな場面は今でも印象深く覚えています。福音書に書かれていない裏話のような話が多いので、ローマに留学していた時に、一緒に生活していたドイツ人の聖書学者にカタリナ・エンメリッヒの見た幻示に基づくその著書について質問してみましたら、今の聖書学の立場からは、その受難物語のどこにもはっきり誤りとして退けることのできる話は一つもないとのことでした。それで帰国後にその本を入手したいと思いましたが、絶版で入手できませんでした。しかし、私の読んだその本によると、主イエスは最後の晩餐の後には一睡もしておらず、ゲッセマネで悪霊に苦しめられただけではなく、ユダヤ人たちに捕らえられ、大祭司カイヤファの家に連行される途中でも、ケドロンの谷川に投げ落とされたりするなどの酷い虐待に苦しめられておられます。一晩中そのように虐待され続けた後に、ローマ兵によって激しく鞭打たれたり、茨の冠を被せられたりしたのですから、丈夫なお体の主がどんなに頑張っても、生木の重い十字架を担って刑場まで運ぶ途中で何度もお倒れになったのは、当然であったと思われます。カタリナ・エンメリッヒの見た幻示によると、三度ではなく七度も倒れておられます。そしてその度ごとに虐待されています。十字架に釘付けにされた後に、他の二人の盗賊たちよりも早く息を引き取られたのも、主のお受けになった虐待の酷さのためであると思われます。主は実際、私たちの想像を絶する恐ろしい苦しみを耐え忍びつつ、その御命を生贄として天の御父に献げ、人類の罪の赦しと人類救済の恵みを天から呼び下されたのではないでしょうか。同時にこの世の苦しみを聖化して、神による救いの恵みを私たちの魂に呼び下す器として下さったのではないでしょうか。そのために極度の苦しみを耐え忍ばれた主に対して、深い感謝の心を新たに致しましょう。そして私たちも、日々自分に与えられる苦しみを主と内的に一致して耐え忍び、神に献げることにより、世の人々の上に神から恵みを呼び下すように努めましょう。
苦しみそのものには少しも価値がない、などと言う人もいますが、苦しみを単に受けるだけ我慢するだけで、外的社会的には何も産み出さないものとしてこの世的・理知的に考えるなら、そうかも知れません。しかし、少なくとも神の御独り子がこの世に来臨して多くの苦しみを進んで耐え忍び、それにより人間救済の業を成就なさった後には、苦しみは、主イエスと内的に一致して生きようとする私たちキリスト者にとって人間救済の手段として祝別され、神の恵みの器としての高い価値を持つに至ったように思われます。苦しみは、固く凝り固まっている私たちの心の土を打ち砕いて掘り起こし、そこに神の恵みの種が深く根を張って、豊かに実を結ぶことができるようにしてくれるからです。病気、誤解、失敗、その他の突然の思わぬ苦しみを受けたような時、目前のその出来事だけに目を向けずに、救い主キリストにも信仰と感謝の眼を向けて、主と一致してその苦しみを受け止め、多くの人の救いのため、私たちの忍耐を快く神にお献げするよう努めましょう。その時、主ご自身が私たちの内に共に苦しんで下さり、その苦しみを浄化して、私たちの魂を一層強く豊かにして下さるのを実感するようになると思います。恐れずに、受けた苦しみを愛し、苦しみを耐えることによって主との一致を深めるように心がけましょう。