2012年4月22日日曜日

説教集B年:2009年復活節第3主日(三ケ日)


朗読聖書: . 使徒 3: 13~15, 17~19.   Ⅱ. ヨハネ第一 2: 1~5a.  
  . ルカ福音 24: 35~48.
本日の第一朗読は、ペトロが神殿の美しい門の所で生来歩けなかった男を奇跡的に癒したことに驚いた民衆に話した説教ですが、彼はその中で、メシアを殺害したユダヤ人の罪を糾弾した後に、神がその殺されたメシアを死者の中から復活させたと宣言し、「私たちは、このことの証人です」と述べています。度々復活の主に出会った目撃体験と、旧約聖書の言葉に基づいての力強い証言であると思います。ペトロがその結びで、「ところで兄弟たちよ、あなた方があんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったことは、私には分かっています。云々」と、大きな罪を犯してしまったユダヤ人の無知と弱さに、温かい理解を示していることも、注目に値します。罪を厳しく糾弾したのは、無知から犯してしまった罪を自覚させ、何よりも神からその罪の赦しを、一人でも多くのユダヤ人たちに受けさせるためであったと思います。自分たちの心が罪に穢れていることを人前で恥ずかしがる必要はありません。謙虚にそれを認めて神の憐れみを願い求めるなら、罪の穢れは、神の憐れみと大きな恵みを自分たちの上に呼び下す貴重な手段となるのですから。私たち人間の犯した罪には、神の御前にそういう大切なプラス面もあるのです。失望してはいけません。
私たち現代人の心の中にも、無知と弱さから犯してしまった罪の穢れが宿っていて、私たちを事ある毎に内面から悩まし、弱らせ、神の恵みによって明るい希望の内に生活するのを妨げているかも知れません。「罪」と聞くと、人はよく何かの社会的規則や修道会などの会規に違反した言動を考え勝ちですが、聖書が問題にしているのはそのような人目につく外的な規則違反ではなく、何よりも神の愛の御心・御旨に従おうとしない、私たちの奥底の心の態度や心構えのようです。それは心の奥に深く隠れているので、全てを合理的に考える人には理解できない一つの神秘だと思います。私が神学生時代に聞いた話では、実際ある聖人は「罪の神秘」という言葉も使っているそうです。家族や社会の結束が根本から弱まり崩壊しつつある現代の大きな過渡期、自由主義思潮の横行で心の教育・鍛錬も善悪判断も軽視され歪められつつある現代の能力主義時代には、悪霊たちは外的出来事で人々を苦しめ悩ますよりも、むしろ各個人の心の奥に住みついて、家庭や社会を内側からいじめ苦しめようとしているように思われます。
最近の若い日本人の間では小林多喜二が1929年に発表したプロレタリア文学の「蟹工船」や、太宰治が終戦直後の1947年に執筆しベストセラーとなった小説「斜陽」が愛読されていると聞いたので、先日この二つの著作を読んでみました。今の秋田県大館市の貧しい農家に生まれた小林多喜二は、小樽高等商業を卒業して銀行員になっても、労働争議に大きな関心を示し、1926年に蟹工船博愛丸で、就職難のため低賃金で雇われた漁夫や雑役夫に対する虐待事件が発生すると、その翌年友人の協力で蟹工船の実態を綿密に調査し、その記録に基づいて「蟹工船」を執筆したのですが、後で共産党員になって投獄され、1933年に拷問を受けて獄中死しています。その作品を読んでみますと、蟹工船の中では大勢の雇われ人たちが低賃金で競うように働かされ、待遇改善のため団結して労働争議を起こすと、船長が近くに伴って護衛していた日本の駆逐艦に連絡して、ストライキを呼びかけた労働者たちの代表9人を、駆逐艦で連れ去ってもらうという話になっています。現代は当時とは労働事情が大きく違っていますが、現代の読者たちは、血縁・地縁の支えを全く失っている現代の孤立化した労働者たちの救いようのない苦悩を、その作品の中に読み取っているのではないかと思います。いくら大勢の人が声を張り上げて叫んでみても、今の世の黒潮のように大きな流れを変えることはできず、孤立した個々人は結局その流れに押し流され、呑み込まれて行く無能を痛感しているのかも知れません。
「斜陽」を書いた太宰治は津軽の大地主の家に生まれ、東京帝国大学文学部を出ると、左翼運動に関心を示しつつも、1935(昭和10)から次々と優れた小説を発表しています。そして敗戦後の昭和22年の夏から秋にかけて、文芸誌『新潮』に、昔の貴族、すなわち爵位を持つ一族の歳老いた母とその未婚の娘かず子に焦点を合わせて、伝統的社会制度の急激な崩壊と混沌とした変貌の中での、二人の心の動きを扱った小説「斜陽」を書いたのでした。その年の5月にアメリカ軍の指導下で造られた日本国憲法が施行されましたが、国家も社会も、まだ仕事も資材もなくて極度に貧しく、都会の人々は生きるために食べ物の買い出しに明け暮れする状態で、海外からの帰還者たちで増大した労働者たちの間では、共産党指導の労働運動だけが大きく広まり、戦争責任者たちに対する東京裁判もまだ進行中、これからの日本社会がどうなるかは、まだ誰にも予測できないような社会的混沌が続いていました。そんな中で焼け野原のような東京を離れて、伊豆の山荘で暮らしている小説の母と娘は、「お金がなくなるという事は、なんという恐ろしい、みじめな、救いようのない地獄だろう」「どうせ滅びるものなら、思い切って華麗にほろびたい」などと考えています。二人は持っているたくさんの着物をどんどん売って、思いっきり贅沢な暮しをしながら死んで行こうとします。
そこへ大学の途中で軍隊に召集され、南方の島に行ったきりであったかず子の弟直治が帰って来ます。しかし、ひどい阿片中毒になっており、帰国すると毎晩酒におぼれ、母にお金をせびります。母は結核が悪化して間もなく死にますが、直治は東京で麻薬中毒にも苦しみ、嫁いだ姉に盛んに薬代をねだります。かず子は首飾りやドレスまで売って、直治に言われるままにお金を届けますが、やがて「いっそ思い切って、本職の不良になってしまったらどうだろう」「札つきの不良に」などと考えるようになります。直治もそれ以前から「結局、自殺するよりほか仕様がないのじゃないか」などと考えており、遂に伊豆の山荘で「遊んでも少しも楽しくなかった」「生きている意味が分からない」などの言葉を遺書を残して自殺してしまいます。
この小説がベステセラーになり、「斜陽族」という言葉が1947年の流行語になりましたが、62年前のこの小説がなぜ今の日本人たちに愛読されるのかと考えてみますと、今の日本人の中にも、生きている意味が分からない、遊んでも少しも楽しくない、社会の将来にも希望を持てない、酒や薬物の依存症には勝てない、こんな苦しい状態がいつまでも続くのなら、いっそ思い切って贅沢な暮しをし、本職の不良になってでもいいから、今の社会の深刻なマイナス面を何かの事件によって明るみに出し、国にも社会にも訴えて死んで行こう、などという過激な考えを抱く人たちが増えつつあるのかも知れません。詩編の62番には「人は皆通り過ぎる風、頼りにはならない。はかりにかけても、その重さは息より軽い」という言葉がありますが、その人たちは、混沌としている今の世の一切をそのような頼りないもの、虚しいものと痛感しているのかも知れません。11年前から日本で自殺者が毎年3万人以上もいるのも、このような希望のない行き詰まり感覚や虚しさ感覚と関係があることでしょう。現代の悪霊たちもそのような人々の心を悩まし、絶望へと追い込もうとしているかも知れません。主キリストによる復活信仰の希望や喜びを神から戴いている私たちは、そういう人たちの心に神による救いの恵みが与えられるよう、もっと祈る使命を持つと思います。罪の穢れがどれ程であっても構いません。その人たちが心を神に開き神の憐れみに頼るなら、神は全ての罪を取り除き、どんな悪人をも救うことがお出来になります。その人たちが、今の世の流れの行き詰まりにだけ心の眼を向ける苦しみを介してその心を反転させ、全能の神の方に心の眼を開き、その憐れみを願い求めて救いの道を見出すよう祈りましょう。
メシアの受難死は、数百年前から預言者たちによって予告されていた神の御旨でした。神のご計画では、メシアは人々の罪によって殺されても復活し、一層大きな自由の内に世の終りまで人類と共に留まり続け、悔い改めて信じる人を救うために派遣されたのです。ですから、たといメシア殺しの罪を犯してしまっても失望することなく、「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」と、使徒ペトロは本日の第二朗読の中で力説しているのだと思います。復活の主キリストも本日の福音の中で弟子たちに、「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなた方はこれらのことの証人となる」と話しておられます。私たち人類の犯した罪がどれ程大きなものであろうとも、失望せずに一心に神により頼み、この世中心・人間中心のこれまでの自分の生き方を捨てて、神の御旨に対する従順の生き方への「悔い改め」に転向するなら、その時主キリストの功徳によって全ての罪が赦され、心の奥底に神からの新たな恵みが溢れるほどに注ぎ入れられて、人間は神の導きと力に支えられて明るい希望の内に生き始めるのです。それは、内的に自分に死んで神に生きる「死と生の恵み」ですが、主キリストはこの大きな恵みと希望を人類にもたらすために、受難死を遂げ復活なされたのです。今落胆と混迷のどん底に苦悩している現代人が、一人でも多く復活の主のこの恵みに浴することができるよう、本日のミサ聖祭の中で祈りましょう。