2012年4月8日日曜日

説教集B年:2009年復活の主日(三ケ日)


朗読聖書: . 使徒 10: 34a, 37~43.  Ⅱ. コロサイ3: 1~4.
 Ⅱ. ヨハネ福音 20: 1~9.
本日の第一朗読は、使徒ペトロがカイザリアにいたローマ軍の百人隊長コルネリオとその家族・親戚・友人たちの前で話した説教からの引用ですが、使徒言行録10章の始めにはこのコルネリオについて、「彼はイタリア隊と呼ばれる部隊の百人隊長で信心深く、家族一同とともに神を畏れ敬い、民に数々の施しをし、絶えず神に祈っていた」と述べられています。そしてある日の午後三時頃、彼は幻の中で神の天使が家に入って来て、「コルネリオ」と呼びかけるのをはっきりと見た。彼は天使を見つめていたが、怖くなって「主よ、何でしょうか」と尋ねた。すると天使は、「あなたの祈りと施しは神の御前に届き、覚えられています。今ヨッパに人を遣わして、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は海辺にある皮なめしのシモンの家に泊まっています」と言ったと、続けられています。
その使者たち三人がその翌日の昼ごろに、カイザリアから48キロ程離れたヨッパに近づいたら、皮なめしの家の屋上で昼の祈りを唱えていたペトロも、脱魂状態の内に天から四隅を吊るされた大きな布が降りて来て、その布の上に地上のあらゆる動物や鳥などが乗せられているのを見ました。そしてペトロにそれらの生き物をほふって食べるように命ずる、神の声を聞きました。ペトロが驚いて、「主よ、清くない物、汚れた物は何一つ食べません」と答えると、「神が清めたものを清くないなどと言ってはならない」という神の声がありました。こういうことが三度も繰り返された後に、我に返ったペトロが、今見た幻示はいったい何だろうと思案していると、コルネリウスから派遣された使者たちがシモンの家を探し当てて、ペトロと呼ばれるシモンという人がここに泊まっておられるかを尋ねました。その時神の霊がぺトロの中に働き、彼らが神から派遣された使者であることを告げ、ためらわずに彼らと一緒にカイザリアに行くよう勧めました。そこでペトロはそれが神の御旨であることを確信し、ヨッパにいる数人の男の信徒たちを連れて、その使者たちと一緒にカイザリアに行きました。信徒数人を連れて行ったのは、ユダヤ人の伝統的律法を順守していたエルサレムの信徒団から後で、カイザリアの異教徒たちの家に宿泊したことを律法違反として非難された時に、それが神からの特別の介入に従って行われたものであることを証言してもらうためでした。
こうしてカイザリアに行ったペトロがそこに数日間滞在して、百人隊長コルネリオとその家族・友人たちに洗礼を授け、聖霊を呼び下すためになした説教からの引用が、只今ここで読まれた本日の第一朗読であります。一昨日ここで朗読されたマルコ受難記の最後に、主イエスの受難死の一部始終を目撃していた百人隊長が、主の死後すぐに「まことにこの人は神の子であった」と言った、という話がありましたが、私はその人が、ペトロの説教を聞いて異教徒からの最初の受洗者となった百人隊長コルネリオではなかったか、と勝手に推察しています。というのは当時カイザリア港の傍に建つ宮殿に駐留していたローマ総督は、毎年の過越祭にガリラヤからも大勢のユダヤ人巡礼団がエルサレムに集まる機会を利用して、ローマに反抗する暴動が起こらないよう、過越祭前後一週間余りをカイザリアの「イタリア隊」と呼ばれていた部隊一千人ほどを伴ってエルサレム神殿の北隣に建つアントニア城に滞在していたからであります。ローマ兵たちの中には問題を起こすことの多かったユダヤ人たち、特にガリラヤ出身者たちを軽蔑し、憎んでいた者たちも少なくなかったようですが、それに対する反動もあってか、この百人隊長たちは前述したようにユダヤ人たちの神を畏れ、日々神に祈っていたようです。現代の私たちの周辺にも、マスコミに報道されなくても、また聖書に啓示されている真理は知らなくても私たちの信ずる神を畏れ、神に感謝の祈りを捧げている異教徒はたくさんいると思います。私たちキリスト者は、知識中心の信仰心を最優先することなく、そういう隠れている「無名のキリスト者」たちを大切にし、心を大きく広げて無数の異教徒・未信仰者の中での神の働きのためにも、神に感謝と讃美の祈りを献げる使命を担っていると思います。神に献げた祈りの実りは、私たちが味わわなくて結構です。教外者のその人たちが神の恵みを豊かに受けるよう、大きく開いた明るい心で神に感謝と讃美の祈りを献げましょう。
本日の第二朗読には、「あなた方は死んだのであって、あなた方の命はキリストと共に神の内に隠されているのです」という、使徒パウロの少し不可解な言葉があります。誤解しないよう気をつけましょう。ギリシャ語原文ではこの「命」という言葉は「ゾーエー」となっていて、刻々と過ぎ行くこの世の儚い命、ギリシャ語で「プシュケー」と言われる命ではなく、神の内に永遠に続くあの世の命を意味しています。復活の主キリストから分け与えられたこの命は、水の洗礼を受けた私たちだけにではなく、まだ聖書の教えを知らずにいる無数の敬虔な人たちにも、主キリストの功徳と神の広大の憐れみによって、神から分け与えられていると信じます。神からの信仰の真理に豊かに浴している私たちキリスト者は、そのいう人たちのためにも、主キリストの復活によってこの世にもたらされた計り知れない大きな恵みに感謝と讃美の祈りを献げ、希望に満ちた明るい信仰に生きるよう心がけましょう。地上の過ぎ去る物に心を囚われ、この世の儚い命の死を恐れてはいけません。使徒パウロが自分の体験に基づき、本日の第二朗読の中で教えているように、私たち修道者はこの世の過ぎ行くそういう外的事物や命に死んで、内的にはすでに永遠に続く主キリストの命に生きている身です。私たちの心の奥に宿る、もはや死ぬことのない復活の主キリストの、その献身的愛の命の実をこの世の人々に証ししつつ、感謝と喜びの内に生きるよう心がけましょう。