2012年4月15日日曜日

説教集B年:2009年復活節第2主日(三ケ日)


朗読聖書: . 使徒 4: 32~35.   Ⅱ. ヨハネ第一 5: 1~6.  
  . ヨハネ福音 20: 19~31.
本日の第一朗読は、聖霊降臨によって生れた教会共同体の美しい一致の姿を伝えていますが、主がエルサレム滅亡の予言と並べて、世の終りと主の栄光の再臨についても予言なされたので、当時は使徒たちをはじめ一番最初のユダヤ人信徒団も、エルサレムの滅亡と世の終わりが近いと考えていたようです。主が受難死を遂げられた後頃から多くのユダヤ人たちが、使徒たちの大胆な説教に耳を傾けて、祭司長たちの指導に素直に従わなくなり、豊かさと極度の多様化の中でユダヤ社会は内面から次第に崩壊の兆しを見せ始めたからかも知れません。それで、キプロス島出身のバルナバら、十分の土地財産を所有する信徒の資産家たちは、程なく世の終りが来るのならこの世の財産は全て失われるのだからと考え、それらを売っては代金を使徒たちの所に持ち寄り、信徒団は皆、神の慈しみの内に心を一つにして助け合い励まし合って生活するようになったのだと思います。しかし、この状態はいつまでも続いたのではありません。
皆が始めに予想した終末がなかなか到来せず、初めに持ち寄ったものが底を付き始め、貧しさを目前にするようになると、やはり人それぞれに、自分の蓄えや生き残り策を考えるようにもなったものと思われます。エルサレムでキリスト教会が誕生して20数年後に、使徒パウロがギリシャ系改宗者たちの諸教会から集めた寄付金をエルサレム教会に持参していることから察すると、紀元50年代には既にエルサレム教会が貧しさを痛感し始めていたのではなかと推察されます。他方ユダヤ人社会崩壊や分裂の兆しも年々深刻化していたので、ファリサイ派の律法厳守教育を受けた若者たちの中には、商工業の国際的発達を推進しつつ税金の平等徴収を課しているローマ帝国の体制に対する、過激な反攻運動を呼びかけて止まない者たちも多くなり、キリスト教教会内にまで入って来た一部のこのような信徒たちが、律法からの自由を説く使徒パウロの宣教活動を妨げ、各地でパウロを迫害させたのだと思います。しかし同じ頃エルサレムでも、ローマ帝国への反抗運動に批判的な衆議所議員たちが、次々と暗殺されています。
当時のこのような過激なユダヤ人若者たちの動きは、国際的視野に欠ける現代のタリバンや北朝鮮の人たちの過激な動きを連想させます。現代世界にも2千年前のエルサレム滅亡前のユダヤ人社会を思わせるような、様々な過激な動きがゆっくりと進行し広まりつつあるように思われます。商工業の発達に伴う豊かさや極度の多様化は続いていますが、人類世界崩壊の兆しはすでに見え始めているように思われます。世の終わりの予告に添えて主がお勧めになった注意事項を心に刻みつつ、私たちも神信仰に生きるよう心を堅めていましょう。
ローマに対する反乱によってエルサレムが紀元70年に滅亡しても、まだ世の終りにはならず、ローマ帝国の支配が一層強化されて、使徒たちもほとんど皆いなくなると、世の終りはまだまだ遠い将来のことではないのかという考えが広まり、それまでの生き方や信仰に対する疑問も生じて、教会内には使徒たちの教えとは違う見解や教えを広めようとする人たちも現れ始めたようです。本日の第二朗読は、1世紀末葉のそういう教会事情の中でしたためられた書簡からの引用ですが、そこではキリスト者の本質と、神の掟 (即ち「私が愛したように、互いに愛し合いなさい」という主から与えられた新しい掟) の遵守が強調されています。禅仏教は言わば人間側からの探究が中心になっている宗教で、禅僧たちはたゆまぬ努力によって自分の心の迷いや煩悩を克服し、悟りに到達しようとしますが、主イエスを神の子と信ずる私たちは、主の掟を守ること、聖霊の導きや働きに積極的に聞き従うことによって神の命に成長し、神の霊に生かされ導かれて、すなわち神の力によって、古い自分にも神を信じない世の流れにも打ち勝つのです。使徒ヨハネの説くこのような教えに従い、私たちも小さいながら神の霊によって教会共同体の一致を堅め、神中心に生きようとしていない世に打ち勝つ証しを立てるよう努めましょう。
本日の福音の始めにある「夕方」は、ルカ福音の記事を考え合わせますと、夜が更けてからのように思われます。主が復活なされたその日、エマオで早い夕食を食べようとした弟子二人が、急いでエルサレムに駆け戻ってからの出来事のようですから。本日の福音に二度述べられている「真ん中に立つ」という言葉には、深い意味が込められていると思います。それぞれ考えも性格も異なる人と人との間、そこに主キリストの座があり、相異なる人と人とを一致させ協働させる平和と愛の恵みも、その神の座から与えられるのではないでしょうか。主はその真ん中に立って、「あなた方に平和」と挨拶なされたのです。日本語の「人間」という言葉も、この聖書的観点から大切にして行きたいと思います。それは、各人の中に宿る主キリストに対する信仰と結びますと、キリスト教化して使うこともできる美しい言葉であると信じます。
ところで、他の弟子たちが主の最後のエルサレム行きを恐れ、躊躇し勝ちであった時、「私たちも行って、一緒に死のう」(ヨハネ11:16) と皆に呼びかけた忠誠心の堅いトマスが、なぜ他の弟子たちが目撃し実証している主イエスの復活を、すぐには信じることができなかったのでしょうか。戦後も長年日本の敗北を認めようとしなかった横井庄一軍曹や小野田寛郎少尉などのように、忠誠心の堅い人には180度の思想転換に長時間が必要だと思います。それで主も、忠誠心の堅い弟子トマスには、一週間の猶予期間を与えて下さったのではないでしょうか。その間、トマスの心はいろいろと思い悩んだでしょうが、その悩み抜いた心に主がお現れになった時、彼はその苦しみから解放されて、180度の転換をなすことができたのだと思います。主のこのような導き方は、人を改宗に導く時にも、心すべきことだと思います。
復活なされた主を目前に見て、トマスが叫んだ「私の主、私の神よ」という言葉も、注目に値します。そこには自分の心を深刻な悩みから解放して下さった主に対する感謝と感動の喜びも込められていると思います。後年、教会はこの感動に満ちた宣言をミサ聖祭の「栄光の讃歌」に採用し、「神なる主」という言葉で表現しています。私たちは使徒トマスのように復活の主を目撃してはいませんが、見なくてもその主の現存を堅く信じつつ、「栄光の讃歌」を歌う時あるいは唱える時には、悩みから解放された使徒トマスの喜びと感激の心を、合わせて想い起こすように致しましょう。