2013年8月11日日曜日

説教集C年:2010年間第19主日(売布の御受難修道女会で)



朗読聖書: 
.智恵 18: 6~9.
.ヘブライ 11: 1~2, 8~19. 
.ルカ福音書 12: 32~48.
 
    日本のカトリック教会は、ローマ教皇が1981年に広島でなされた「平和アピール」に応え、その翌年より毎年の86日から終戦記念の15日までを「平和旬間」と定めて、世界平和のためのさまざまな共同的祈りと催しを致しています。今日はその平和旬間中の日曜日であります。それで本日は世界平和のために、このミサ聖祭を献げます。ご一緒にお祈り下さい。
    毎年この平和旬間になると原子爆弾廃棄が力強く叫ばれていますが、先進国での原爆実験は行われなくなり、既に有り余るほど保有されている原子爆弾の数は幾分少なくなっても、新しく原爆保有に努める国々もあるので、原爆の完全放棄は実際上絶望的という印象を受けます。既に強力な原爆が発明されてしまった以上、それを発明以前の状態に戻そうとする理想主義は、現実的でないと思います。それで、1950年代前半の教皇ピオ12世は世界に向けて、原子力の平和利用を強調していました。原子力のプラス・マイナス両面についての複眼的視野に立つ教皇のその叫びに応えて、世界各地で原子力発電所が数多く造られるようになり、私たちもその恩恵に浴しています。勿論この平和利用にも大きな危険がともなっていますので、人類はプラス面ばかりでなく、マイナス面にも絶えず慎重に警戒していなければなりません。また現代のように複雑な時代には、歴史的現実のプラス面とマイナス面の両方にしっかりと眼を向けながら、そこに働いている神の導きや護りなどに従おうとする複眼的信仰精神も、大切だと思います。
    実は、広島と長崎に恐ろしい原子爆弾が投下されたという事実にも、神の御前ではマイナス面ばかりでなくプラス面もあったことを、見逃してはならないと思います。当時私は中学3年生で新潟県新発田の軍需工場で働いていましたが、その年の4月始めにアメリカの大軍が沖縄に上陸し、中学3年生も上級生たちに続いてこれから工場で勤務することになった頃であったかと思います、新発田連隊の下士官の一人が新発田中学に来て、これからの日本について中学生たちに伝えて置きたい重大なことがあると校長に願い、その日登校していた中学3年生以下の生徒全員を講堂に集めて、一時間程の講演をしたことがありました。当時の中学45年生は殆ど皆学徒動員で首都圏の軍需工場で働いており、一部は予科練などに入って飛行機に乗る訓練を受けていました。
    その軍人の話によると、米国軍は恐ろしく残酷で、ガダルカナル島の海岸で殆ど横一列になって伏せており、もう動くこともできずにいた日本軍の死者や負傷兵たちを、大きな戦車で一斉に踏みつぶしてしまったこともあり、310日の夜には、東京の下町一帯に無数の焼夷弾を、絨毯を敷くようにして投下し、数え切れない程多くの一般住民を殺傷したりしている。最近ラジオや新聞では「本土決戦」という言葉が叫ばれているが、いざ本土決戦が始まったなら、余程大きな神風や神からの助けがない限り、今日本に残っている軍事力では、正直に言って圧倒的に強大な敵に勝つことはできない。その場合には次第に山奥に追い詰められ、弱者・病人たちを敵の手に渡さないために、我々自身の手で殺さなければならなくなるであろう。そしてやがて、日本国民は一人残らず玉砕し、この地球上から消えて行くことも覚悟しなければならないであろう。本土が決戦場になったら、わが軍の徹底的抗戦によってこの美しい日本の山河も全部廃虚となることを覚悟しているように。杜甫の詩に「国破れて山河在り」とあるが、本土決戦が始まったら、「国破れて山河なし」となるであろう、というような主旨の講演でした。
    その軍人が帰った後、日頃親しくしていた村瀬校長は私に個人的に、「こんな話になるとは思わなかった」と不満を表明なされたが、これが当時の日本各地で陸軍の下士官たちが抱いていた考えだったのではないかと思います。この講演の少し前の325日に、硫黄島を守っていた日本軍23千人が最後の戦闘をなして玉砕しましたが、その中には新発田の軍隊から出陣した兵隊たち2千人も含まれており、私たち中学生はその冥福を祈る儀式にも参加しましたので、親しい同僚たちを失った軍人たちは、やがて同じ運命が本土を守る自分たちの上にも来ると、覚悟を新たにしていたのかも知れません。私より十六歳年上の私の一番上の姉は、当時数人の婦人たちと共に新発田連隊の被服部に勤務していましたが、この年の春ごろ上司の軍人から皆青酸カリの小袋を渡されて、敵が近くに迫って来たら飲むようにと指示されており、姉は一度その青酸カリを私に見せてくれたこともありました。国のため最後まで戦って玉砕した無数の先輩兵士たちとあの世で親しく語り合うことができるためにも、自分たちも最後まで戦って玉砕しようという、善意からではありますが視野の狭い単眼的な思考は、その後次第に陸軍の上層部にまで普及したようで、ずーっと後で知ったのですが、7月下旬の天皇の御前会議でも、本土決戦が軍部の方針として議決されたそうです。
    日本各地の都市が次々と爆撃されて焼け野原と化し、6月下旬に沖縄を占領したアメリカの大軍がいよいよ日本本土に上陸する日が近いと思われていた8月に、広島と長崎に当初ラジオで「新型爆弾」と表現された原子爆弾が投下され、無数の市民が一瞬で死んだり、ソ連の大軍が満州に攻め入ったりしたことが報道された後、815日正午に天皇の玉音放送があって終戦を迎えましたが、私は祖国のこの事態をどう受け止めたらよいかに、長いこと心の戸惑いを感じていました。しかし、新発田の連隊本部に入ったアメリカの進駐軍が、私たちに対して親切で奉仕的であったことを体験したり、戦後間もなく私が友人たちと新発田のカトリック教会に遊びに行くようになり、やがて受洗して多治見の修道院に入り、ドイツ人宣教師たちの指導を受けたりしている内に、あの原子爆弾の犠牲になった無数の人たちのお蔭で、日本は本土決戦を避けてアメリカの傘下での平和な時代を迎えるに至ったのだと確信し、神に感謝するようになりました。
    それで司祭に叙階されてからは、今でも毎週2回、火曜日と金曜日のミサの中で煉獄の霊魂たちの救いのために祈っていますが、その時特に世界中の戦争犠牲者たちのために祈っています。その人たちの犠牲によって、今の平和が実現し支えられていると感謝しているからです。毎年8月になると、特に広島では核兵器廃絶の要求だけが声高く叫ばれますが、長崎では少し雰囲気が違って、数十年前頃には「神に祈る原爆記念」という印象を与える、とよく言われていました。最近はそれがどうなっているか、知りません。以前の長崎信徒たちが原爆記念日によく神に祈ったのは、原爆犠牲者の一人永井隆博士の影響だと思います。永井博士は昭和201123日、廃虚と化した浦上天主堂前で行われた合同慰霊祭に信徒代表として弔辞を読み、その中で、「神は戦争を終結させるために、私たちに原爆という犠牲を要求したのです。日本唯一の聖地である浦上に貴い犠牲の祭壇を設け、燃やされる小羊として私たちを選ばれたのです。そして犠牲になる筈であった幾千万の人々を救われたのです」と述べていますが、私はこの世の出来事だけではなく、神の摂理にまで信仰の視野を広げている博士の複眼的思考に敬服し感謝しています。
    私は昭和20年の春から夏にかけて自分が見聞きした陸軍軍人たちの動きからも、もし原爆の発明と投下がなければ、当時の日本は本土決戦と一億玉砕の道を進み、その場合天皇は山梨県か長野県辺りに移されて軟禁され、連合軍への降伏の道は閉ざされて日本降伏の日は遅くなり、実際に幾千万の日本人が命を失うに至ったと考えています。ですから、その悲惨な事態を阻止するために犠牲となってくれた広島・長崎の死者たちに感謝し、その御冥福を今も祈っています。これは、当時の日本陸軍に対する私一人の危惧ではなく、他にも同様の危惧を抱いていた人たちがいたと思います。例えば今年になって知ったことですが、原爆投下後の812日に、当時の米内光政海軍大臣は側近に、「原爆とソ連の参戦は、ある意味では天祐だ。憂慮すべき国内情勢を表面に出さずに戦いをやめることが出来れば、むしろ幸いである」と話されたそうです。広島・長崎の被爆者と満州日本人の大量犠牲者がいなかったら、本土決戦を呼号していた陸軍は、既に全国各地で大規模に準備していた本土決戦の計画を諦めようとはしなかったと思われます。「平和旬間」に当たり、65年前に日本本土での決戦が始まらないよう歴史を導いて下さった神の御摂理に感謝すると共に、そのために命を捧げて下さった数多くの戦争犠牲者たちにも感謝し、その犠牲者たちの御冥福も合わせてお祈り致しましょう。