2012年3月11日日曜日

教集B年:2006年四旬節第3主日(三ケ日)

朗読聖書: . 出エジプト 20: 1~17.  Ⅱ. コリント前 1: 22~25.

   . マルコ福音 9: 2~10.

本日の第一朗読は、モーセを通して与えられたいわゆる「十戒」でありますが、ここでは第二朗読と福音についてだけ、話すに留めたいと思います。本日の第二朗読には、「ユダヤ人はしるしを求める」とありますが、なぜしるしを求めるのでしょうか。何事も自分中心に理知的に考え、利用しようとしている自我を捨てきれず、神の大らかな愛に全く身を委ね、神の僕・婢として、信仰と従順の闇の中で神への奉仕愛に生きようとしていないからではないでしょうか。また自力で智恵を探していると言われているギリシャ人たちも、自分中心の理知的自我の立場に立つ限りでは、人々に神による救いの恵みをもたらすため、十字架の死を甘受なされたキリストの献身的愛の生き方を理解できず、数多くの誤解や不安や矛盾が渦巻くこの現し世の深い霧の中に、いつまでも留まり続けると思います。

使徒パウロがユダヤ人やギリシャ人について書いているこれらの言葉は、2千年前のユダヤ人・ギリシャ人にだけ該当する指摘ではなく、自分中心・この世の生活中心に生きている全ての人に、時代や場所の違いを超えて通用する指摘であると思います。極度の豊かさと便利さの中に生れ育ち、民主主義・自由主義の時代思想を自分中心の立場で都合よく理解しながら生活している、現代の多くの人たちにもそのまま該当すると思います。現代には若者や中年の大人たちの間で、家族や人間社会に対しても、自分の人生についても心に一種の根深い不信感ないし絶望感を抱いている人が増えて来ているように思われます。わが国で11年前から毎年3万人以上の人が自殺しているのも、各人の自我が自分で作った内的殻の中に自分の心を閉じ込め、大きく開いた明るい奉仕的精神で、家族や社会と共に生きる若さを持てずにいる証拠だと思います。私たちの生活を支えておられる神の存在を知らず認めずに、ただ人間の力だけに頼って生きることしか知らないなら、次々と際限なく様々の格差や相互対立を産み出して止まない現代の歪んだグローバル社会に、不安と絶望を痛感するのは当然だと思います。神に対する信仰・信頼・委ねの心という、人生にとって大切な霊的土台が欠如しているからです。

将来に明るい希望を持てずにいる、そういう人たちが増えつつあることを思うと、神信仰に生きる恵みに浴している私たちには、神の愛・聖霊の神殿としての生き方を実践的に深めることにより、神の恵みと憐れみを世の人々の心に呼び下す使命を、神から与えられ期待されていると思います。神は一人でも多くの人を救おうと、真剣になっておられる親心の持ち主ですから。神は私たちの奥底の心を目覚めさせるため、時として思わぬ失敗・病苦・災害などの試練をお遣わしになりますが、その時はすぐに神に心の眼を向け、神の僕・婢としてそれらの苦しみを、今神よりの照らし・助けの恵みを必要としている人たちのため、喜んで神にお献げ致しましょう。そしていつも神中心に神のため、無料奉仕の精神で生きるよう努めましょう。すると私たちの奥底の心がしっかりと目覚めて立ち上がり、私たちの自我がいつの間にか無意識のうちに築いていた、心の殻や壁を打ち壊して、新たな奉仕の意欲で自由にのびのびと生き始めるようになります。心の中に神の霊の力、神の賢さが働いて下さるからだと思います。使徒パウロはそのことを自分でも度々体験し、その体験に基づいて、本日の朗読聖書の中で神の力、神の知恵を私たちにも説いているのではないでしょうか。

本日の福音に読まれる、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」という主のお言葉は、主が常日頃ご自身の体を神の神殿、神の霊の生きている神殿と考えておられたことを示していると思います。使徒パウロもコリント前書3章や6章に、洗礼の秘跡を受けた私たちの体が、聖霊の宿って下さる神殿になっていることを説いています。主イエスの御模範に倣って、私たちもこの信仰を大切に致しましょう。私たちの体は自分個人のものではなく、洗礼の秘跡によって聖化され、神に献げられた神殿になっているのです。私たちは修道誓願によっても、この献げを更に堅めています。四旬節に当たってこの初心を新たにし、日々主イエスと深く一致しながら、聖霊の生きる神殿として生活するよう心がけましょう。そうすれば私たちのごく平凡な言行も、ちょうどあどけない幼子の言行が母親の愛を促すように、父なる神の愛と憐れみを促して、社会の人々の上に神による照らしと助けの恵みを豊かに呼び下すと信じます。

神殿は、神と人間社会とを結ぶ祈りの場であり、神が恵みを施すパイプのような器であると思います。神殿はまた、太祖ヤコブが夢に見た天と地を結ぶ梯子のようなもの、あるいはモーセたちが荒れ野を旅した時に神臨在の幕屋の上に留まっていた雲の柱のようなものでもあると思います。私たち各人の体と天の神とを結ぶ、目に見えないそのような霊的梯子や雲の柱の存在を信じ、自分の体を物質的動物的にだけ見ないよう心がけましょう。神殿は、神と人々への献身的奉仕にその存在価値を持つものであることも、忘れてはなりません。主イエスは「私は仕えられるためではなく、仕えるために来た」とおっしゃいましたが、私たちも同じ精神で日々神と人とに仕えるよう心がけましょう。