2012年3月18日日曜日

説教集B年:2009年四旬節第4主日(三ケ日)


朗読聖書: . 歴代誌下 36: 14~16, 19~23. . エフェソ 2: 4~10.
   . ヨハネ福音 3: 14~21.
本日の福音は、ある夜ひそかに主イエスの許に訪ねて来たファリサイ派の議員ニコデモの質問に答えて、主がお語りになった話からの引用ですが、ここではこの話についてだけ少し考えてみましょう。主はまずニコデモに、「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」、「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」などと、神の霊による全く新しい誕生についてお語りになり、神から民に啓示された神の言葉、神の掟について、それまで専門的に研究しその順守に努めていたファリサイ派のニコデモを驚かせています。ファリサイ派は、神から与えられた掟を忠実に守ることによって神の恵みを受け、死んでも永遠の命に入ることができると信じ、またそのように民衆に教えていたからです。主はここでニコデモに、旧約時代にはなかった水と聖霊による全く新しい洗礼の秘跡について啓示なされ、その洗礼によって霊的に新しく生まれなければ、誰でも神の国に入ることはできない、と話されたのです。
そして更に、「はっきり言っておく。私たちは知っていることを語り、見たことを証ししている」、「天から降って来た者、すなわち人の子の他には、天に上った者は誰もいない」と、ご自身の啓示しているこの新しい救いの道が確実に神よりの疑い得ないものであることを断言なさった後に、話の後半には神による救いの道を可能にするもっと大きな出来事、すなわちご自身のお受けになる受難死などについても啓示しておられます。この後半の啓示が、本日朗読された福音であります。ニコデモが主をお訪ねしたのは、主が最初の弟子たちを呼び集め、ガリラヤのカナで水を葡萄酒に変えるという、「最初の徴」と言われている大きな奇跡をなさった後でエルサレムに来られてからの出来事のようですから、主の公生活前半のことで、この段階では、主は弟子たちにもまだご自身の受難死について語っておられなかったと思われます。それを初対面のニコデモにお語りになったということは、ニコデモにはすでに、「神よりの人」からのそういう啓示を素直に受け止め、心の中で深く思い巡らす信仰の地盤が備わっていたからだと思われます。
本日の福音の始めに主は、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆人の子によって永遠の命を得るためである。云々」と、神の民がエジプトを脱出して荒れ野を旅していた時の出来事を援用して、神による救いの道を教えておられます。旧約時代に神の民が見聞きしたことは、これからの時代に神がお示しになる新しい救いの道の前兆としての価値を保持しています。主はこういう観点から旧約聖書を見直しつつ、これから為さる神の働きの意味を考え、それを素直に受け止めるようニコデモに教えられたのだと思います。人間の力では荒れ野の毒蛇に打ち勝てず、神の言葉に従って作られた蛇の像を木の上に釘付けにしたものを、神への信仰と希望の心で仰ぎ見る人たちが皆、神の力によって救われたように、これからの時代にも、世の人々の罪を背負い十字架に上げられて死ぬ神の御独り子を信仰をもって仰ぎ見る者、その信仰に生きる者は、「一人も滅びないで、永遠の命を得る」に至るのだ、というのが主の啓示だと思います。
しかし、主がその後で「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」と話しておられる言葉は、注目に値します。光の本源であられる神の御子が大きな愛をもってこの世に来られたのに、悪を好み悪行をなす者たちは、その行いが明るみに出されるのを恐れて光を憎み、光の方に来ようとしません。それが、主の言われる「信じない」ということのようです。としますと、その人たちは自分で神の光を避け、その光を憎むという生き方を選び取っていることになります。従って、それは自分で神の働き、神の光を裁き退けていることになり、神の側からみれば、それが「既に裁かれている」ことになるのだと思います。私たち人間の心には、自分で神による救いの道を頑固に排除し、それに心を閉ざしてしまうという、真に痛ましい危険な自由の可能性も残されています。そのような石地のように固い心には、せっかく神の命の種が蒔かれても、根を下ろして実を結ぶことはできません。神の呼びかけや神からの光に背を向け、神の恵みの種をもらっても自分の中には根を下ろさせない、そういう石地のように固い自分中心主義の不毛の心になってしまうことが、神によって「既に裁かれている」と述べられていることから考えますと、信じない人たちは神によって公然と裁かれ退けられる前に、すでにこの世において、自分で自分の魂を神によって裁かれ退けられた状態に陥れてしまうのだと思います。これは、恐ろしいことだと思います。
自分中心・この世の考え中心の石地のような心ではなく、自分の心を細かく砕き耕すことに心がけ、神の命の種が根を張り実を結び易くするような肥沃な畑地の心にするよう努めましょう。聖母は神の御子受肉のお告げを受けた時、「私は主の婢です。お言葉通りにこの身になりますように」とお答えになりましたが、私たちも徹底的従順に生きる純朴な僕・婢の精神で、自分の怠りや欠点などを容赦なく明るみに出す神の光や働きなどを恐れずに受け入れ、それに従うよう努めましょう。それが真理を行う者の生き方であり、神の霊に導かれ支えられて心を浄化し、主キリストと深く一致する永遠の命へと高められて行く、救いの道なのですから。
私たちは数年前から、三ヶ月に1回、浜松市から豊橋市にいたるまでの地元住民のためにミサ聖祭を献げて、神の豊かな祝福とご保護を特別に願い求めていますが、本日のミサ聖祭はこの意向でお献げ致します。ご一緒に心を合わせてお祈り下さい。