2013年11月3日日曜日

説教集C年:2010年間第31主日(三ケ日)



朗読聖書:  
. 智恵 11: 22 ~ 12: 2.  
. テサロニケ後 1: 11 ~ 2: 2 
. ルカ福音書 19: 1~10.

   本日の第一朗読には、全宇宙の創り主であられる神に対して「あなたは全ての人を憐れみ、改心させようとして人々の罪を見過ごされる」という言葉が読まれ、続いて「あなたは存在するもの全てを愛し、お創りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるなら、創られなかったはずだ」だの、「命を愛される主よ、全てはあなたのもの、あなたは全てをいとおしまれる。あなたの不滅の霊が全てのものの中にある」だの、更に「主よ、あなたは罪に陥る者を少しづつ懲らしめ、罪のきっかけを思い出させて人を諭される。悪を捨てて、あなたを信じるようになるために」などの言葉が読まれます。いずれも万物を創造なされた全能の神の、存在する全ての被造物、全ての人に対する限度なしの大きな愛を、目的論の立場から断言している、忘れてならない貴重な聖書の言葉だと思います。

   死んでも届け出が為されておらず、従って戸籍に記録されていない高齢者が全国に非常に多くいることが今年の夏に明らかになると、現代社会における血縁や地縁の崩壊がマスコミに大きく取り上げられましたが、これは本当に恐ろしい事態だと思います。昔は殆どどこの家でも、家族全員が子供の時から助け合って働かないと生活して行けないような状態でした。戦前や終戦直後頃の統計を調べますと、日本人の80%は農村や漁村に住んでいて、どこの村でも村民が互いに助け合って生活していました。こうして助け合って村落共同体を築いていないと、自然災害や飢饉の時には生きのびれない程、各人は自然界の中にあって弱い貧しい存在でした。皆様が御存じの蜆塚遺跡を見ても、今から4千年前、5千年前の縄文時代の人々も、小さいながらそのような村落共同体を造って生活していました。恐らく数十万年も続いていると思われるそのような生活形態は、人間が次第に自然界を支配するようになり、大都市を築くようになっても、そこに住む都会人を産み出す基盤と言ってよい庶民の生活を調べてみますと、やはり少し形を変えて続いており、村落と同様の助け合い共同体が形成されていました。

   ところが、1960年前後頃から洗濯機や冷蔵庫や温蔵器やテレビ等々の現代文明の利器が全国的に普及して、どこの家でも家族員がお互いに手伝わなくても、自分の欲する時に自由に食べたり飲んだりテレビを楽しんだりすることができ、各人がそれぞれ子供の時から自分独自の部屋で寝起きするようになりましたら、お互いに相手の自由を妨げないよう心掛けるだけで、日々互いに助け合って生活するという習性が次第に消えて行き、隣近所の人たちと助け合って生きるという習性も消滅して行きました。以前には、親元を離れて都会に生活している人たちは、結婚して家庭生活を営んでからも、盆暮れに親元を訪ねて、お蔭で今も元気にまた豊かに生活しているという姿を親たちに見せていたものですが、1980年代からはそのような慣習も次第に消え始め、親たちも老衰で現代文明の動きについて行けず、息子や孫たちと話や興味が合わなくなると、盆暮れにはもう親元に帰省せず、海外や温泉などで寛ぐ人たちが増えるようになりました。こうして兄弟姉妹同志であっても、もう長年顔を合わせたことがない、文通もしていないという人たちが現代には驚くほど多くなっています。これが高齢の親たちを次第に孤立させ、悲惨な孤独に捨て置かれる状態に陥れるに至ったのではないでしょうか。

   今年の夏から秋にかけて、マスコミによりこの問題が大きく取り上げられると、国でも地方社会でも問題解消のために動き始めているようですが、小さな川の流れとは違う海流のように巨大な現代文明の流れの中での、血縁・地縁の衰退が齎すこの無縁社会の悲惨を解消しようとする努力には、限界が多くて大きな期待は持てないように思います。でも、多少なりとも国や社会の支援を受けつつ、あの世の神やあの世の死者たちの霊に親しもうとする信仰に生きるなら、今孤立している高齢者たちも、その苦悩を多少和らげることができるのではないでしょうか。神信仰と修道誓願によって相互に結ばれている私たち修道者は、高齢になっても比較的に恵まれていると思います。しかし、私たち自身も年齢が進むにつれ、もっとあの世の先輩たちに近づき、心を開いてその助けを願い求めるという生き方を身につけるのが、一つの賢明な生き方なのではないでしょうか。私はもう長年、あの世の守護の天使や保護の聖人たち、並びに浄めの状態にある霊魂たちに親しく呼びかけながら祈るという習慣を続けていますが、あの世からの導きや助けが実際にあるということを、幾度も体験しています。自分の個人的力が次第に弱まり、物忘れをすることや失敗すること多くなっても、あの世からの導きや助けについてのこのような小さな体験は、心を希望の内に温かく支えてくれます。私は不遇に悩む現代の高齢者たちにも、機会が与えられたら、できるだけこのような福音を伝えて行きたいと願っています。

   本日の福音に登場する徴税人ザアカイは、雇い主のローマ総督側から、既定の税金に少し輪をかけて住民から徴収し、こうして多少蓄積した税収の中から不作や天災の年にも、毎年既定額の税金をローマ側に納入するよう決められていたので、その仕事で金持ちになってはいましたが、異教徒の国ローマの支配のために働くユダヤ社会の敵と思われて、ユダヤ人たちの間では肩身の狭い思いをしており、ユダヤ教の教えや律法のことも詳しくは知らずにいたと思われます。彼がいたエリコの町に救い主と噂されている主がやって来られたというので、背丈の低い自分もひと目その方を見てみたいと思い、先回りして大きな無花果桑の木に登り、よく茂ったたくさんの葉の陰からそっと主を垣間見ていたようです。しかし、主はその木の下をお通りになる時、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃいました。ギリシャ語を直訳しますと、「私は今日あなたの家に泊まらなければならない」とおっしったようです。誰もが羨む程の光栄が、彼に提供されたのです。衆目を浴びたザアカイは急いで降りて来て、喜んで主を自宅に迎え入れました。そしてその喜びのうちに、今日からは貧しい人たちのために生きようという、自分の新しい決心を主に表明しました。すると主は、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。云々」とおっしゃいました。聖書のことはよく知らなくても、自分中心の古いエゴから抜け出て、神の愛に生きようとする人は皆、アブラハムに約束された祝福に参与する者、神の子らとして神から愛され護られ導かれて、神の永遠の幸福・仕合せへと高められて行くのです。このことは、現代の私たちにとっても同じだと思います。ザアカイのように、「今日」、すなわち神が特別に私たちの近くにお出で下さるこの日に、神からの祝福を喜んで自分の心の中に迎え入れるよう心がけましょう。本日の第一朗読に述べられているように、全能の神はお創りになった全ての人を愛し憐れみ、その罪を見過ごして回心させようと心掛けておられる方なのですから。