2013年11月17日日曜日

説教集C年:2010年間第33主日(三ケ日)



朗読聖書 
.マラキ 3: 19~20a. 
.テサロニケ後 3: 7~12. 
.ルカ福音 21: 5~19.
   今年は十月に入っても日中の気温が25度を超える夏日があったりした程、長い厳しい暑さの夏を体験しましたが、秋は短くてもう落ち葉の目立つ秋の暮、人生の終わりやこの世の終末を偲びつつ覚悟を固めるに相応しい季節になってしまいました。紀貫之の従兄弟で歌人の紀友則は、「吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな」と、晩秋の風のもの寂しさを「色なきもの」と表現しています。これは春を「青春」と青で表現し、夏を「朱夏」と赤で表現し、秋を「白秋」と白で表現し、冬を「玄冬」と黒で表現した中国文学に学んだものと思われます。しかし、日本でも大陸からの乾燥した寒波の来襲で湿度が大きく低下し、度々乾燥注意報や火災注意報が出されることを思うと、日本の秋もやはり、「無色」や「白秋」という言葉で表現されてよいように思われます。詩人の藤原定(さだむ)氏は、「透明な秋に」という題をつけて、ものみな栄え滅びる秋の情景を詠っています。この罪の世の事物は全て、その根底において無色で冷たい、「無」と死の影に伴われており、晩秋の風はそのことを私たちに教えているのではないでしょうか。典礼暦が終わりに近づくこの時期のミサ聖祭に、教会も終末の時を思うに適した朗読を読ませています。本日の第一朗読は、旧約聖書最後の預言書マラキ書からの引用ですが、預言者は本日の朗読箇所で、恐ろしい終末の日には、日頃自分の社会的地位や外的業績などを誇りとしていた人々と自分の望み中心に生きていた人々とが、全てわらのように焼き捨てられ、神を畏れ敬いつつ神の僕・神の婢のように慎ましく生きていた人たちだけが、義の太陽によって癒され救われると教えていると思います。私たちは果たしてその日に神から癒され救われるような生き方をしているでしょうか。年老いた私たちには、この世の全てが夢のように儚く過ぎ去って行くと痛感させられる日が遠くないと思います。自分の死の時を先取りして本日ゆっくりと反省し、この世に対する執着を全て絶ち切って、「義の太陽」神目指して喜びの内に昇って行く心の翼を、今から準備して置きましょう。
   本日の第二朗読の出典であるテサロニケ後書で、使徒パウロはまずこの世の終りに主イエスが再臨なさることと、その時の神による裁きとその再臨の前に世に現れ出る徴などについて語っていますが、そのすぐ後で、テサロニケの信徒団が自分たちから学んだ正統の教えを堅く守り、善い業と祈りなどに励むよう、いろいろと言葉を変えて勧めています。その話の一つが本日の第二朗読であります。使徒はそこで、「働きたくない者は、食べてはならない」などと、神の教えをファリサイ派律法学士たちのように頭で理解しようとはせずに、むしろ体を使って実践的に体得するよう勧めています。この勧めは、私たちも忘れてはならないと思います。
   余談になりますが、禅宗と呼ばれている禅仏教は、インドではなく中国で6世紀になってから成立したと聞きます。仏教は文字通り仏の教えですが、文字で書き残された経典をどれ程研究しても、文字で表現されたその経典自体には限界や不完全があって、仏の悟りを自分のものにすることができません。そこで仏の心を直接体験的に学び取ろうとしたのが禅宗だそうで、始めの内は「仏心宗」と呼ばれていたそうです。それは、何よりも仏の心を座禅や実生活の中で、仏と一心同体になって生きる実践を通して学び取ろうとする生き方を指しているのだそうです。仏が坐っている姿が坐禅で、仏者は禅堂で座って仏と一心同体になろうとしますが、しかしそれだけではなく、行住坐臥の全てを仏と一つになって生きようとするのが、本来の「仏心宗」・禅宗の趣旨だそうです。キリスト教も、日常生活を内的に復活の主キリストと一致して営む所に実現するのではないでしょうか。私たちも聖書についての理知的ファリサイ的な研究によってではなく、禅僧たちのように平凡な実生活の中で、実践的に主の導きや働きを心で体得するよう努めましょう。
   本日の福音は、人々がエルサレム神殿がヘロデ大王により見事なギリシャの大理石で再建され、各地からの奉納物で飾られているのに見とれていた時に、主がお語りになった話ですが、「一つの石も石の上に残ることのない日が来る」という予言は、それから40年後の紀元70年に実際にその通り実現してしまいました。大理石は水にも風にも強い、非常に硬い石ですが、カーボンを多量に含有しているため火には弱く、火をかけられると燃え崩れる石ですから。アウグストス皇帝が推進したシルクロード貿易の発展で、当時のエルサレムには大勢の国際貿易商が来て、町は経済的に豊かに発展しつつありましたが、急に徹底的廃墟と化してしまいました。かつてなかったほど便利にまた豊かに発展しつつあるこの現代世界も、人間としての尊厳を失わせる内的堕落の道を歩むなら、いつの日か同じ神によって恐ろしく悲惨な崩壊に落とし入れられることでしょう。主はエルサレムの滅亡と重ねて、世の終りについても話しておられるからです。同じルカ福音の17章に、主は人の子が再臨する時に起こる大災害について、「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、娶ったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも、同じようなことが起こった。云々」と、その大災害が豊かさと繁栄の最中に突然襲来することを予告しておられます。
   「そのことが起こる時には、どんな徴があるのですか」という弟子たちの質問に、主は本日の福音の中で、大きく分けて三つのことを教えておられます。その第一は、世を救うと唱道するような人々が多く現れるが彼らに従ってならないこと、戦争や暴動のことを聞いても怯えてはならないこと、これらの徴がまず起こっても世の終りはすぐには来ないことであります。第二は、民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に大地震・飢饉・疫病が起こって、天に恐ろしい現象や著しい徴が現れることです。そして第三は、これらのことが全て起こる前に、すなわち起こり始めている時に、キリスト者に対してなされる迫害であります。
   ところで、主がここで話しておられるような徴は、一時的部分的には教会の二千年の歴史の中で幾度も発生しており、その徴があるから世の終りが近いと結論することはできません。しかし、第二と第三の徴はルカ福音書では一応終末時の出来事とされているようですから、大地震・飢饉・疫病・迫害などが世界中到る所で大規模に発生し、天空に何かこれまでになかったような恐ろしい現象や著しい徴が現れたりしたら、その時は世の終りがいよいよ間近だと覚悟し、この世の事物やこの世の命に対する一切の執着を潔く断ち切って、ひたすら神から与えられるものだけに眼を向けつつ、神に対する信仰・希望・愛のうちに全てを耐え忍び、忍耐によって神の授けてくださる新しい命を勝ち取るよう努めましょう。それはある意味で、この世に死ぬことと同じでしょうが、しかし、信仰に生きる私たちにとっては、死は新しい世界への門であり、新しい命への誕生なのですから、「恐れてはならない」という主のお言葉を心に銘記しながら、大きな明るい希望と信頼のうちに、終末の災害・苦難を神の御手から感謝して受け取るように心がけましょう。

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