2012年11月1日木曜日

説教集B年:2009年11月1日諸聖人の祭日(三ケ日)


朗読聖書: . 黙示録 7: 2~4, 9~14.   . ヨハネ第一書簡 3: 1~3.  
   . マタイ福音 5: 1~12a.

   本日の第一朗読であるヨハネの黙示録は、紀元1世紀の末葉AD 94年に、ローマ帝国内の住民たちが経済的豊かさと自由主義の内に、思想も何も極度に多様化して内部分裂の道を進んでいるのではないかと心配したDomitianus皇帝が、隣のペルシャ帝国から皇帝礼拝の慣習を導入し、自分を”Dominus et Deus”(主なる神)と呼ばせ、自分の家臣たちから礼拝を強要したことから、キリスト信者たちに対する迫害が始まって、不安になっている人たちを励ますために、使徒ヨハネが神から受けた幻示を記したものだと思います。この迫害の初期には、皇帝の従兄弟でキリスト者であった元老議員のFlavius  Clemensが殉教し、その妻Flavia  Domitillaは島流しにされました。彼らの所有していた広い屋敷は2世紀に教会の所有とされ、その後長くキリスト者のカタコンブ地下墓地として利用されています。ローマに現存するカタコンブの内で一番古く、また一番大きく広がっているドミティッラ・カタコンブであります。彼らと同じ頃、使徒ヨハネも捕えられて迫害されますが、後にパトモス島に流されました。黙示録は、彼がそこで受けた幻示を記したものと考えられています。

   本日の朗読箇所は、終末の日にこの地上世界に神の怒りが下されるのに先立ち、ヨハネが見せてもらった天使たちによる神の民の保護と、あらゆる民族の中から救いの恵みに浴した大群衆の、天上での神礼拝の様子について述べています。ここで「十四万四千人」とある数値は非常に多いことを象徴的に示している文学的表現で、ユダ族から一万二千人、ルベン族から一万二千人、とイスラエル十二族を数え上げ、それらを総計して十四万四千人としているのです。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない」という天使の言葉は、古代ローマの一時期、奴隷の額に主人の刻印を押して、特定の主人の所有としていたことを思い出させます。ここでは、額に神の刻印を押すことによってその人が神の僕、神の奴隷であるという、永遠に消えない証拠にすることを意味していると思われます。人間中心・この世中心の生き方に死んで、神の奴隷となり、神の御旨中心に生きようとする人々は、額に神の刻印を押してもらうことによって、やがて襲い来る大地も海も荒れ狂うような大災害の最中にあっても、天使たちに護られ救い出されるのではないでしょうか

   「この後、私が見ていると、見よ、あらゆる国民・種族・民族・言葉の違う民の中から集まった、誰にも数えきれない程の大群衆が、云々」という言葉は、全世界の全ての民族から数えきれない程多くの人が救いの恵みを受けて、神の御許に集められることを示していると思います。この世の人生における宗教の違いにこだわり過ぎてはなりません。主キリストが創立なされたキリスト教会に所属している私たちは、主から派遣されて主がお定めになったミサ聖祭を献げつつ、主と一致して多くの人の救いのために自分自身を神に献げ、また祈ります。私たちの救いのためにだけ祈るのではありません。まだ主の福音を知らない無数の人々のため、異教徒や不信仰者たちの救いのためにも、ミサ聖祭を献げつつ祈るのです。すると不思議なことに、主キリストによる救いの恵みが、その人たちの心の中で生き生きと働くようなのです。神は私たちの所とは違う仕方で、その人たちをその人たちなりに、最終の救いへと導いておられるようなのです。こうしてあの世では、その人たちも私たちも皆、主キリストにおいて一つの群れになり、声を合わせて神を讃え歌うようになるのではないでしょうか。

   主は一度、「私には、まだこの囲いに入っていない羊たちがいる。私は彼らをも導かなければならない。彼らも私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる。云々」と話されましたが、主が設立なされた教会という囲いの中にいない無数の異教徒たちの中にも、主の御声を正しく聞き分ける主の羊たちが多いのではないでしょうか。例えば私の所には、十数年前から毎月、原始福音信仰を唱道する無教会主義の幕屋グループから『生命の光』という月刊誌が郵送されて来ます。無料の贈呈なのです。私は喜んで愛読していますが、神の霊は度々そのグループの信者たちに驚くほど生き生きと働き、癒しや救いの恵みを与えて下さるようなのです。このグループが故手島郁郎氏によって熊本で創立されたのは1948年で、1952年から発行された月刊誌『生命の光』は、すでに684号になっています。そこに記されている聖福音の神を信じる人たちの数多くの詳細な体験談を吟味してみますと、主の霊は私たちのキリスト教会の中でよりも、その人たちの所で遥かに多くの奇跡的癒しの業をなしておられるという印象を受けます。それでキリストの福音に基づいて素直にひたすら祈りつつ生きることを唱道するこの人たちの信仰生活は、今では日本各地だけではなく、米国やカナダ、中南米やイスラエル、デンマーク、台湾、インドネシアにまで広まっています。

   以前に一度ここでも話したかと思いますが、私から受洗した一人の信徒がそのグループの祈りの集会に参加してみようと考えたことがあると聞いた時、私はすぐ、その人たちがそういう奇跡的恵みに浴しているのは、私たちカトリック者が日々主キリストのお定めになったミサ聖祭を献げているお蔭であると思うので、私たち自身は奇跡的癒しの恵みを体験しなくても、それら全ての恵みの本源であるミサ聖祭の献げを心を込めて行うのが、神から私たちに与えられている使命であると思う、と答えたことがあります。私は今でもそのように信じています。主キリストは受難死を目前にして、「私が地上から上げられたら、全ての人を私の所に引きよせよう」と話しておられ、使徒言行録3章では聖ペトロも、アブラハムに語られた神のお言葉を引用しながら、地上の全ての民はキリストによって神の祝福を受けると説いています。主キリストは教会を創立しましたが、その教会に所属しないなら救われないとは話しておられません。キリスト教会は、キリストによる救いの恵みを全人類に届ける献身的奉仕のために設立された集団で、教会中心の独善的考えは退けましょう。心を大きく開いて、今この教会に所属しない無数の人々の中にも、いずれあの世で私たちと共に主キリストの群れとして神に迎え入れられる神の子らが、数えきれない程多くいるのだと考えましょう。………