2013年9月1日日曜日

説教集C年:2010年間第22主日(三ケ日)



朗読聖書: . シラ 3: 17~18, 20, 28~29.
                . ヘブライ 12: 18~19, 22~24a. 
         Ⅲ. ルカ福音書 14: 1, 7~14.  
           
本日の第一朗読であるシラ書には、旧約のユダヤ人たちの間で愛用されていた格言
や教訓が多く集められていますが、本日の朗読個所ではその内の「偉くなればなる程、自ら遜れ。そうすれば主は、喜んで受け入れて下さる」「主は、遜る人によって崇められる」などの勧めが読まれます。とかくこの世の人間関係にだけ注目し他人からよく思われようと努め勝ちな人たちは、これらの勧めを聞くと、人前での出しゃばった言行を慎み、謙虚に振る舞うようにという意味で受け止め勝ちですが、神がお求めになっておられる遜りは、そんな人前での外的遜りではなく、全てを自分中心・人間中心に考えて行動する「古いアダム」の生き方を改め、神の僕・婢として神の御旨に従って生きようとする内的精神を指していると思います。それは主イエスが御自ら生きて見せた生き方ですが、神はそのような実践に励む謙虚な人によって崇められ、その遜りを通して救いの恵みをこの世の人々に豊かにお注ぎ下さるのだと思います。

本日の福音は、安息日にファリサイ派のある議員から食事に招待された主イエスが、
一緒に招待された客が上席を選ぶ様子を見て話された譬え話ですが、ギリシャ語原文の「パラボレー」という言葉は、日本語の「譬え」よりはずーっと広い意味であり、二つの全く異なる領域にあるものを比較し、よく知られたものを通して他のまだ知られていない真理を説明する時に、よく使われます。本日の福音で主が語られた譬え話は、正にそのような「パラボレー」でした。ですからこの譬え話の言葉をこの世の社会生活にも適用して、「昼食や夕食の会を催す時には、友人も兄弟も、親類も近所の金持ちも呼んではならない」というのは、主のお考えではないと思われます。主は神より遣わされた使者、神の僕として、人々の救いのために奉仕する場合の内的心構えについてだけ語っておられるのですから。相手からの報いを期待せずに、(ただ神の僕・婢として)この世では全然お返しできないような貧しい人や助けを必要としている身障者・弱小者たちに優先的に奉仕しなさい。そうすれば、正しい人たちが皆復活する時に神によって報われるから幸せです、というのが主の教えだと思います。婚宴に招待された時の席次の譬え話も、この世の社会生活のための心構えであるよりは、あの世の宴会に招かれている者としての内的心構えについての教えであると思います。

この世的損得勘定を全く度外視して、ひたすら神のお望み、神の御旨にだけ心の眼を向けながら、神の救いの御業に奉仕する人生を営むのが救い主の生き方であり、今の世に生き甲斐を見出せずに悩む人たちの心に、神からの照らしと導きの恵みを豊かに呼び降す道でもあると思います。私たちが、小さいながらもそのような生き方を身につけることができるよう、恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。
福者マザー・テレサは、「誰からも必要とされない病気」という言葉を話されたことがあります。病気にはそれぞれ医薬品や治療法がありますが、心を極度の内的孤独感で蝕むこの病気は、「喜んで差し伸べられる奉仕の手と、愛の心があるところでない限り、癒されることがない」というのが、福者マザー・テレサのお考えだそうです。来日なさった時に話された、「日本は豊かな国ですが、内的には貧しい国です」というお言葉は、必要なものは何でもあり余る程所有している外的豊かさの故に、非常に多くの人たちの間に心と心との献身的愛の交流が育たず、外的豊かさの中にあって「誰からも必要とされていない」という孤独の病気、孤独の虚しさに苦しんでいる人が少なくないことを見抜いて、話されたのではないでしょうか。物的豊かさと共に急速に普及し強化された自由主義や個人主義によって、共同の困難・貧困・不安を乗り越えるため互いに助け合い励まし合って生活していた、それまでの温かい伝統的共同体精神が内側から崩され、各人がそれぞればらばらに生活するようになった所に、心の孤独に苦しむ人が激増した最大の原因があると思います。この社会的状態は、このままにして置いてはならないと思います。

自由主義・個人主義・能力主義などは皆それぞれに個人や社会を発展させる長所を持つ善ですが、ただその対極にある共同体精神や連帯精神と共にバランスよく心の中に育てないと、個人をも社会をも内面から病的にする危険な毒物でもあります。近年外的豊かさの中でメタボリック症候群の病人が急増したら、適度の運動の必要性や食生活のバランスなどが強調されるようになりましたが、同様のバランスの必要性は精神面についても強調されないと、多くの日本人も日本社会も、いずれ恐ろしい内的病魔に苛まれることになるでしょう。一人でも多くの人がその恐ろしい危険性を察知し、隣人たちとの温かい共同体精神、共に苦しみ共に助け合って神と大自然への感謝の内に生きようと努める精神を実践的に育てるよう、神からの照らしと導きの恵みを祈り求めましょう。

余談になりますが、1970年代の前半に、私は名古屋にあるカトリックの聖霊病院の産婦人科を二、三度見学したことがあります。昔は出産は殆どいつも個人宅で産婆さんによって為されていましたが、1960年代に核家族化が普及し、若い夫婦が都市部で生活するようになりましたら病院で出産するのが一般化して、70年代前半には非常に多くの幼児が病院で生まれていました。察するに、大戦直後のベビー・ブーム時代に生まれたいわゆる団塊の世代の結婚により、都市部で生まれた第二のベビー・ブーム、団塊ジェニアの幼児たちであったと思います。ところが、外界の黴菌に感染することがないよう母親も自由に近づけないようにして、一人一人清潔なプラスティク容器に入れられ、べビールーム1室に40人か50人もの赤ちゃんがいるのに、看護婦は数人だけでした。それで、殆どの赤ちゃんは大声で泣いていました。末っ子で小学生や中学生の時代に、子沢山の長兄夫婦の子供のお守りをさせられた私は、これは赤ちゃんが可哀そうだと思いましたが、当時はそれが日本の都市部のどこでも一般化していてどうにもなりませんでした。しかしその2,30年後になってみると、生まれて間もなくの心が不安で、母親の腕に抱かれ母乳で育てられる愛を必要としていた赤子の時に、その温かい心の愛を十分に受けずに育った若者たちが、いろいろと恐ろしい少年犯罪を仕出かすのを聞くにつけ、愛の不足している現代の家庭や社会に深刻な不安を覚えるようになりました。

赤ちゃんの頃に十分に温かい愛を体験しなかった人間は、大きくなっても人に対する思いやりに欠け、今の世に対する不満からか自分の心をよくコントロールできないように見えます。家庭での親との心の通いも、少し冷やかになっているのではないでしょうか。テレビやパソコンや携帯電話の普及もあって、昔のように食卓やこたつを囲んで家族皆で語り合う機会も殆どなく、家庭での人間関係は希薄になっているように見えます。塾通いなどで知識や技術の獲得は多くても、親子の心や愛の通いは希薄で、表面的には平穏に見えていても、潜在的には問題を抱えている家庭が多く、しかもそれらの問題を手を付けずに放置している家庭が多いと聞きます。子供が社会問題を起こして警察などに呼ばれてから、初めて自分の子供の言うことに耳を傾ける親が多く、それまで一度も具体的な事柄で子供を叱ったことも指導したこともない父親が多いと聞きます。父親無関心、母親過干渉の家庭が多くなっているとも聞きます。こんな家庭が増えていると、これからの社会にもまだまだいろいろと問題が生じて来ると危惧されます。そういう現代的家庭問題の解消のためにも、神の憐れみと導き・助けの恵みを祈り求めましょう。