2013年9月8日日曜日

説教集C年:2010年間第23主日(三ケ日)



朗読聖書 Ⅰ. 智恵 9: 13~18. . フィレモン 9b~10, 12~17.
     Ⅲ. ルカ福音書 14: 25~33. 

    紀元前4世紀の後半にアレクサンドロス大王のペルシア遠征が成功し、ギリシャ系の支配者たちがエジプトやシリアなどオリエント諸地方を支配するようになりますと、ギリシャ文明がオリエント全域に広まり始め、エジプトでは紀元前3世紀から2世紀にかけて、旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたりしました。それは、人口の多い大国エジプトをプトレマイオス王朝の配下にある少数のギリシャ人だけで支配することはできないので、ギリシャ人たちは契約や規則を忠実に守るユダヤ人たちのエジプト移住を優遇し、新しく建設した港町で首都のアレキサンドリアは五つの地区に分けられていましたが、その内の二つはユダヤ人街とされていました。多くのユダヤ人がギリシャ人によるエジプト支配に協力し、首都アレキサンドリアやその他の地方で比較的裕福な生活を営むようになりましたら、エジプトで生まれたその子供たちや孫たちはギリシャ語しか話さなくなったようで、彼らにユダヤ民族の伝統を伝えるため、為政者側からの積極的支持もあって、旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。これが「七十人訳」と言われた旧約聖書であります。当時のエジプトにはパピルスと言われた植物の葉を利用した紙が豊富にありましたので、この「七十人訳」のギリシャ語聖書は、異邦人の間でも広く愛読されるようになり、これが使徒時代にキリストの福音がギリシャ・ローマ世界に早く広まる地盤になりました。

    ところでギリシャ人が大きな港町アレキサンドリアを介して地中海諸地方と、現代世界の雛形と思われるほど盛んな国際交流を続け、世界各地の古書や資料を筆写して世界最初の大きなアレキサンドリア図書館を建設した首都に住むユダヤ人知識人たちの間では、同じく国際交流を積極的に推進した優れた知識人ソロモン王の智恵に見習おうとするような知恵文学が盛んになり、処世術や人生論などに対する人々の関心が高まっていたようです。本日の第一朗読である「知恵の書」は、そのような流れの中で執筆された聖書で、人間の知恵の源泉である真の神の知恵について教えています。この神の知恵に導かれた聖母マリアのように、人間中心のこの世の知恵には従わずに、神の僕・婢として神の御旨中心に生きようとする信仰精神とその賢明さは、国際交流が盛んで各種の思想が全世界的に行き交う中で生活する現代人にとっても、大切なのではないでしょうか。理知的なこの世の知恵や知識が万事に優先され、何事にも合理的な理由付けを求める考え方が、社会の各層に広まっている現代社会には、そういうこの世の理知的知恵やその論議に振り回され、心の奥底に悩みやストレスを蓄積している人が少なくないように見受けられます。

    本日の第一朗読には、「あなたが知恵をお与えにならなかったら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、誰が御旨を知ることができたでしょうか」という言葉が読まれますが、続いてその神の知恵、神の聖霊によって「地に住む人間の道はまっすぐにされ」、人は神の御旨を学び知って救われることが説かれています。悩む現代人の心を救うものも、この世の智者の研究や知恵ではなく、何よりも神の霊、神から与えられる知恵だと思います。一週間余り前の8月下旬に朗読されたコリント前書1章の中で、使徒パウロは「私は知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを虚しくする」というイザヤ29章の言葉を引用しながら、この世の知恵に従おうとするのではなく、主キリストを通して提供されている神の知恵、神の力に従うよう力説しています。使徒のこの言葉も、様々な意見や学説が飛び交って混沌としている現代世界に生きる私たちにとって、大切だと思います。主なる神は、私たち現代人が己を無にして神に心を向け、神よりの知恵、神の霊に従おうとして真剣になるのを、切に待っておられるのではないでしょうか。

    本日の福音の中で読まれる「(父母や妻、兄弟姉妹たちを) 憎まないなら、私の弟子ではあり得ない」という主のお言葉は誤解され易いので、少し説明させて頂きます。ヘブライ語や当時パレスチナ・ユダヤ地方で一般民衆の話していたアラマイ語には比較級がないので、たとえば「より少なく愛する」、「二の次にする」というような場合には、「憎む」と言うのだそうです。従って、主が受難死の地エルサレムへと向かっておられた最後の旅の多少緊張感の漂う場面で、付いて来た群衆の方に振り向いておっしゃったお言葉は、私に付いて来ても、私を父母兄弟や自分の命以上に愛する人でなければ、また自分の十字架を背負って付いてくる程捨て身になって私を愛する人でなければ、誰であっても私の弟子であることはできない、という意味に受け止めるべきだと思います。察するに、そこにいた群集の多くは、農閑期の暇を利用し、単に大衆ムードのまま多少の好奇心もあって、主の一行にぞろぞろ付いて来ていたのだと思います。そこで主は、付いて来たいなら、各人腰を据えてよく考え、捨て身の覚悟で付いて来るようにと、各人ひとりひとりのパーソナルな決意を促されたのではないでしょうか。

    主が最後に「自分の持ち物を一切捨てなければ、誰一人私の弟子ではあり得ない」とおっしゃっておられることも、大切です。主は受難死を間近にして、全ての人の贖いのために、ご自身の命までも捧げ尽くそうと決意を新たにしておられたと思いますが、主の弟子たる者も、ご自身と同じ心で多くの人の救いのために生きることを求めておられるのだと思います。主の御跡に従う決意で誓願を宣立した私たち修道者は、その初心を今も堅持しているでしょうか。主のこれらのお言葉を心に銘記しながら反省してみましょう。ルカ福音書は、本日の話のすぐ後で「塩は良いものだが、塩味を失えば、外に捨てられる」という主の厳しいお言葉を入れています。塩がその塩味を失うことがあり得るだろうか、などと主のお言葉に疑問を差し挟む人もいますが、当時の塩は現代の塩のように100%塩化ナトリウムなのではなく、技術的不備から稀に不純物が多く混入してしまった塩もあって、不純物の多く混入している塩は外に捨てられていたようです。メシアの存在が、全く他の多くの人の救いのための存在であったように、私たち修道者の存在も、ちょうど塩のように他の人々のためにある存在、他の人々の心に味付けをし、その腐敗を防止するための存在だと思います。その塩に、この世の不純物を混入させないよう気を付けましょう。私たちは、自分が神から召されたこの素晴らしい「他者のための祈りの生き方」「他者に自分を全く与え尽くす生き方」の意義を、しっかりと自覚しているでしょうか。本日の福音に読まれる主のお言葉を心に刻みながらあらためて反省し、修道者としての初心を新たに堅めましょう。