2014年5月4日日曜日

説教集A2011年:2011年復活節第3主日(三ケ日)



第1朗読 使徒言行録 2章14、22~33節
第2朗読 ペトロの手紙1 1章17~21節
福音朗読 ルカによる福音書 24章13~35節

  途方もない大災害に見舞われた東日本の被災地で、ようやく復興の動きが始まって来たようですが、先日ある新聞で、ローマ教皇が聖金曜日にイタリアのテレビを介し、キリスト教についての多くの現代人からの質問にお答えになった中で、日本の大震災についても話しておられるのを読みました。教皇はその中で、被災者たちが目には見えなくても、神様が自分の傍におられて自分を愛して下さっていることを信ずるようにと希望し、世界の多くの人たちも皆さんを助けるために出来る限りのことをしようとしていることを知って欲しいことや、いつの日かこの恐ろしい苦しみが無駄ではなく、その後に神の愛の計画があったことを、心を広げて悟る日が来るでしょうなどと説いておられます。復活なされた主イエスも、大災害の被災者たちの心に語りかけ、新しい命の道を教えようとしておられるのではないでしょうか。

  この大災害による死者と行方不明者の総数は2万数千人にのぼっていますが、それよりも多くの日本人が、十数年前から毎年自死しています。その他にも、孤独の内に死んでいたのが後で民生委員や警察などに発見されたという例も、最近は全国で毎年3万件にもなっています。いずれも便利な個人主義的現代技術文明の普及で、伝統的地域共同体や家族共同体が内面から崩壊し、無縁社会が都会でも田舎でも普及した社会構造の歪みによる犠牲者であると言って良いと思います。このような社会的歪みを是正するには、差し当たりどうしたら良いでしょうか。私が子供時代に受けた昔の日本の家庭教育では「他人に迷惑をかけないように」と教えられていましたが、無縁社会が普及してしまった現代では、むしろ積極的に隣人に挨拶したりお願いしたりお尋ねしたりして、心と心との交流を産み出すことが大切なのではないでしょうか。個人の枠に閉じこもることなく、積極的に隣人と共に生きる人が増えるよう、主の恵みを願いつつ本日のミサ聖祭を献げましょう。

  近年は各人の思想も性格も極度に多様化して来ていますので、修道会の中にあっても同僚たちから理解されずに孤立している修道者がいるかも知れません。1984, 5年頃でしたが、個性的な人間達が激増して「くれない族」という言葉が流行したことがありました。「挨拶してくれない」、こんなに苦労しているのに「ねぎらってくれない」「分ってくれない」等々の不満を口にする人たちが多くなったからだったと思います。現代の修道者たちの中にも、そういう「くれない族」がいることでしょう。しかし、何事も自分中心に評価するそんな価値観に留まっていてはなりません。私たちは皆、洗礼によって主キリストの普遍的祭司職に参与しているのです。主が最後の晩餐の時パンを割って、御自身を食べ物として弟子たちにお与えになったように、私たちも主と内的に一致し、自分の命や自分の能力を割って、人々の人生を内的に支える食べ物として提供する使命を神から頂いていると思います。自己犠牲的な主の私の内での働きを妨げるものは、私の心の中にいるもう一人の自分だと思います。詩編55には「私に逆らった者、それは私を憎む者ではない」「それは私の同僚、私の仲間」「共に深く交わり、連れだって神の家にのぼったお前だった」という言葉が読まれますが、私はこの言葉を読む時、いつも自分自身の中にいるもう一人の自分、古いアダムの事を考えます。私の心を一番苦しめるものは、私の内にいるそのもう一人の自分、古いアダムではないでしょうか。その自分に負けずに自分の命を割り、隣人たちに食べ物として提供する時、主の救う力が私の内に働き始めるのではないでしょうか。

  テレビで東日本大震災のニュースを見て、以前に読んだある詩を思い出しました。それは水の旅をして小さな狭い谷川から大きく開けた美しい景色の川に流れ出て喜んでいたら、急に滝となって自分が奈落の底へと落ち込んで行く衝撃的恐ろしさを描いた詩でした。しかし、底知れぬ滝壺の深みに投げ落とされて苦しんだ後には、再び表に浮かび上がり、新しい水の旅が始まるという所で、その詩が終わっていました。今回の大震災の被災者たちも、各方面からの援助を受けて立ち直った後には、同じようにして新しい生き方を始めるのではないでしょうか。奪われた過去の人生には戻れなくても、過去に体得した能力を生かして新しく生き始めるのです。私たちを愛しておられる神は、時折このような滝壺への落下を体験させようとなさる恐ろしい方だと思います。私たちの本当の人生はあの世にあり、この世はそのために各人の心を目覚めさせ、磨き鍛える世だからだと思います。私たちが皆例外なく迎える死も、ある意味で滝壺への落下のようなものではないでしょうか。これまで所有していた家も財産も故郷も全て失い、全く無一物になった被災者たちの心境を想像してみましょう。死ぬ時、私たちも皆そのようになるのです。しかし、神目指して立ち直る時、永遠に死ぬことのない私たちの本当の人生、神と共に生きる新しい人生が始まるのです。歴史上幾度も発生した大震災の被災者たちの体験に学び、神中心に生きるあの世の人生の生き方を、今から身につけるよう心掛けましょう。

  本日の第一朗読は、復活なされた主が昇天なされて九日程経った五旬祭の日に、聖母や婦人たちや他の使徒たちと共に聖霊降臨の恵みに浴した使徒ペトロが、集まって来た大勢のユダヤ人たちに向って、声を張り上げて大胆に話した最初の説教の一節です。そこには旧約聖書からの引用もありますが、その話は当時のファリサイ派教師たちの話とは全く違っています。ファリサイ派の教師たちは、神を私たち人間を遥かに凌ぐ聖なる方として遠くから崇めるだけで、実際上はユダヤ教の律法を合理的に解説し民衆の宗教教育を担当すること、そして諸外国からの文化的宗教的影響に抗して、ユダヤ人たちを神の選民として統合し、歴史の中に生きのびることだけに専念していました。無学なペトロたちは、律法の知識では彼らにかないませんが、しかし、主キリストと3年間生活を共にした体験から学んだ、神の新しい働きや導きなどに関する知識については、彼らより遥かに豊かになっており、その神信仰・メシア信仰も、数多くの不思議体験や復活の主キリストとの交わりによって高められ、不屈の強さを帯びていました。その心の中に聖霊が火の舌の形で降臨して下さったのですから、ペトロは火の霊に促されて立ち上がり、声を張り上げて話し始めたのだと思います。使徒時代の教会は、何よりも自分たちの内に現存しておられる神の働き・神の導きに心の眼を向けており、神の御旨中心に動いていました。主イエスを断罪した理知的ファリサイ派のパン種に警戒し、何よりも神の御旨を中心にして生きること、そして自分の信仰体験に基づいて証言すること、これが使徒ペトロが何物をも恐れずに大胆に体現して見せた生き方であったと思います。使徒たちのように、体験に基づく自分の信仰を人々に力強く証しするこのような信仰精神が、現代のキリスト者たちの間では、あまりにも衰退してしまっているのではないでしょうか。

  本日の第二朗読の最後に使徒ペトロが「あなた方の信仰と希望は神にかかっているのです」と述べている言葉も、心に銘記して置きましょう。ここで、「神にかかっている」と邦訳されている言葉は、原文では「神に基づく」と「神に向かっている」との両面を持つ言葉だと聞いています。現代技術文明の普及で個人主義・自由主義が全世界に広まり、各人の思想も欲求もますます多様化するこれからのグローバル時代には、何よりも私たちの間に現存しておられる神の働きに、信仰と従順の精神で結ばれて生きようと努めなければ、家庭も社会も国家も、およそ共同体と言われているものには皆次々と内部対立が発生して、人類社会は水資源についてもその他の資源や富についても、未曾有の対立抗争に悩まされ続けるのではないかと恐れます。外的社会的には神を信奉していても、実生活においては各人の理知的思考を中心にして生活していたようなファリサイ派の生き方には警戒し、主イエスや、聖母マリア、聖ヨゼフに見習い、純朴な神の僕・神の婢としての生き方を身につけ、それを世の人々にも実践的に証するよう心がけましょう。御存じのように、パンはパン種という酵素を入れると大きく膨らみ美味しくなりますが、腐敗し易くなります。パン種なしに焼いたホスチアなら、何カ月でも腐敗しません。エジプト脱出の時イスラエル人たちは、そのようなマッツァ(種なしパン)をたくさん持参して砂漠への旅を始めました。神によって奴隷状態から解放されたその時の出来事を記念しながら、ユダヤ人たちは今でも毎年の過越祭には一週間マッツァを食べて神に感謝しています。私たちも人間がこの世的考えから産み出す一切のファリサイ的パン種を排除し、聖母のようにひたすら神の御旨に従おうとする純朴な種なしパンを食べながら、日々の生活を営むよう心掛けましょう。そうすれば新約の大祭司キリストは私たちのその心にお宿りになり、遠くにいる無数の被災者たちにも、救いの恵みを豊かにお注ぎ下さると信じます。